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母性愛の理想

「母性愛神話の罠」に反論する。
(大日向雅美著、日本評論社刊)



「家庭が崩壊した母親がだめになったとは、この種の議論の際に繰り返される常套句であるが、そうした嘆きをつぶやく人々の脳裏には、家庭も母親も、時代や社会に応じて変わりうることは認めがたいらしく、あたかも家族も母親も社会の変化とは切り離された聖域であるかのような議論が繰り返されている。」と言う。確かに、家庭も母親も変わることができる。そして、著者が男女平等イデオロギーで現状をさらに変えようとするように、私も男らしさ・女らしさ、父性・母性、家庭・主婦を維持する立場から、男女平等イデオロギーの蔓延する現状を変えたいと思う。著者が非難する人々は、守るべき価値を主張しているのであり、著者も自分の主張に合う現実を、それに対する攻撃から守ろうとしているのだ。

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 私は、乳幼児期は重要であり、だからこそ主として母親の手で育てられるべきであるという三歳児理論を主張する。
 乳幼児期が重要な点については著者も同意しているが、この点についても敷延する。
乳幼児期は世界に対する信頼を確立する時期である。この時期に邪険に扱われ続けたりすると、回りの世界を自己に敵対するものとして認識し、それが染み付き、そのまま成長すると反社会的行動に走ることが多い。回りを敵対的と認識するので不安が生じ、心の幸福が損なわれて回りと有効的安定的な関係を結べず、回りとの不安定な関係がまた不幸を呼ぶということになるのだ。
 また、周囲の好意は愛情を乳幼児に注ぐという形をとる。この愛情がふんだんに注がれないと、成長しても愛情飢餓感に苦しむことになる。
 乳幼児は力が弱い。周囲が絶えず見守っていないと重大な事故になることが多い。だから母親のまるごと受け止めたいという愛情で見守る必要がある。
 上のことをマズローの要求の段階で考えてみる。マズローは、最初に食物、水、運動と言った生命を維持するための基本的な生理的要求があり、第二段階には秩序と安全への要求があり、第三段階には、社会的要求、何かに帰属したいという要求、第四段階・アドラー的段階には自尊心、地位、承認、成功に対する要求があり、これらが満たされて初めて第五段階として自己実現が可能とする。
 無防備な体で生まれてくる乳児は、まず、強く第一段階と第二段階、すなわち生理的要求と安全への要求を行う。これらが満たされないときには乳児は周囲の世界を敵対的として認識し将来の反社会性の元となるとともに欠乏が激しいときには心に傷を負う。絶えず注意を払って要求を満たす母性が必要である。
 これらが満たされ乳児から幼児へ成長すると、第三段階の要求として周囲からの愛情と周囲に対する愛情を求めるようになる。この愛着の対象としてまるごと受け止める母性を持つ母親が一番の適格である。
 そして幼児期から少年期へ向かうとき、第四段階の要求をするようになる。このとき学校とともに父性が大きな働きをする。子どもに筋を示し課題を与え、筋に忠実であったことや課題を達成したことで誉めて自尊心などを与えるのである。
 乳幼児期は第三段階までの要求を基礎的に満たす時期である。乳幼児期にこの要求が十分満たされないと、満たされていないという要求の欠如感に苦しむことになるのである。
b このような重要な時期は母親が主として育児を行うべきであるのは以下の理由による。
 母親に育児の適性があること。
 生んだという事実から乳児に愛着をもちやすい。自分の手になじんだ道具に愛着を感じるように自分が生んだという関係そのものから乳児に対して愛着が生じやすい。おなかを痛めた子だから可愛いという事である。
女性には子宮が存在し、子宮とその中の愛児を守ろうと言う性質が染み付いている。
女性は乳が出て乳児に与えたいと思うことが多い。
 このようなことから母親は乳幼児を守り、愛情を与えることに適性を有する。乳幼児期に重要な「まるごと受け止めたいという愛情」を母性により供給できるのである。
 なぜ、父親ではなく、母親が母性を担うべきか。
「まるごと受け止めたいという愛情」を担う母性とは違う父性を社会が必要とするからである。
 父性は優しさよりも厳しさを特徴とし、論理性、合理性を感性により枉げる事なく貫徹するという特徴を持つ。著者は「女性は情緒的で、男性は論理的だなどという通説は、母を語らせれば見事にひっくりかえされる」という。通説は著者の言うような意味ではない。男性も当然情緒を持っていてそれを強く表すこともあるが、知性を情緒によって曇らせることが少ないということである。逆に女性は知性を情緒に従わせることができる、すなわち優しさや感性が優先するということである。
 厳しい父性が存在したからこそ、究理が徹底的に追求されて、文明が発達したのだ。また、母性の特徴とする優しさだけでは、職務を果たせない仕事が多いことも事実だ。私は父性と母性などが失われれば、文明は堕落すると考えている。
 このような父性の家庭における不在が、母親が自分の息子に執着する弊害に力を与えているのである。
 また、母親に愛着することで、子どもが追い詰められた時にもまるごと受け止める愛情を持つ母親には味方になってもらえるという安心が得られる。
 なぜ、保育園ではなく、母親が主として担うべきなのか。
乳幼児が愛着すべきは保母よりも母親である。
保育園は経済合理性を考慮せざるを得ず、母親のかける愛情には及ばないからである。
c 以上のようなことから、母親が主として育児を行わないと悪影響が生じる。
著者はこれを否定するが、反論する。
 柴田幸一氏の研究を例に引いて、「保育園保育児の場合には親子関係が緊密であり、互いに愛情を基本とした信頼関係を築いていこうとする気持ちがあれば、母子分離によって親子関係の質にはさほど影響を受けないことを指摘している。」と指摘する。
 しかし、私が前に指摘したのは親子の関係に止まらない、子供の心の幸福の問題であり、その問題は青年や成人になって顕著になる。また、「気持ちがあれば」の話でもあり、母親が主として育児を担うことから逃げれば、その気持ちは失われるのだ。それに、早い時期から「まるごと受け止める愛情」が欠けていれば、親子の分離の実験の前提となる安定した親子関係さえも無くなるのだ。
 そして、「保育園に子どもを預けることによって、母親が主体的に育児にかかわろうとする意識を弱体化させ、他人任せにする意識が芽生えること」が問題なことを著者は認めているが、三歳児理論を否定することは正ににそのような傾向を助長させることなのである。そのような意識の蔓延を防ぐ「子どもが可哀想」という言葉も認められるはずだ。
 主たる養育者が保育園と家庭とで複数存在せざるを得ない「複数マザーリング」の問題に対しては、著者は愛着には優先順位が存在するから心配が無いとする。しかし、母親が主として育児をしないならば、母親よりも保母を優先して愛着することにもなる。そうすると保母は早くに居なくなるので子どもは幼くして一番大切な人を失う喪失体験をすることになる。三歳児理論を否定すればそういうことが多くなる。
「仮に母親が家庭で養育に当たっている場合でも乳児に拒否的であったり無関心であるならば」保育園に入園する方が望ましいケースも有り得るという指摘を著者はする。しかし、母親が育児に関心を持つ方が望ましく、母親が主として育児を行う事が社会的に否定されれば、その無関心な母親の存在が助長されるのだ。
かっての村落共同体では家ぐるみ、地域ぐるみで行われており、複数マザーリングが適切に機能していたと言う。しかし、その場合も主たる育児は母親が責任を持っていとたというのが事実だ。
 ゴッドフライドの縦断研究では、「全般的結論として乳幼児期の発達状況、児童期の任地の発達、社会性の発達、行動上の適応や問題点、学業成績等において母親が働いている場合と働いていない場合とでいっさい差異が認められない」という。この研究では育児を主として母親が担っているか否かを区別していないので、主として母親が育児をなすべきという考えを否定することはできない。この研究では児童期以降の少年期や青年期における心の幸福などの影響は測られていないようだ。また、「働いている母親は子どもに対してより高度な教育的態度を持ち、それが子どもの認知発達や学業成績、社会性の発達を促進している」し、「母親が働いている家庭では父親の家庭への関与が大きくなり、それが子どもの発達のいくつかの側面にプラスの方向に作用している傾向」があると言う。こういう傾向は男女平等イデオロギーが高い教育を受けた女性に影響を与えやすいことを示している。また、こういうプラスがあるから、本来の悪影響が打ち消されているのではないか。そして、ゴルドバーグとイースターブルークスらの研究では、母親の就労が父親に対して否定的な影響を与えることが認められている。この否定的影響は父親が主夫を押し付けられたとき、顕著になる性質のものだろう。
 実際に母親が働いている子どもたちが母親が働くことの是非の両面をバランスよくとらえるのは、非の面を感じつつも、自分の母親を弁護したいからである。
 著者の言及するYちゃんも自分の母親だから弁護したとも、単に執拗な追求に怒っただけとも取れる。
 そして、女性が生むか生まないかについて決定権を持つのだから、自己の決定の結果である子供についても第一に育児の責任を負うべきだ。


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