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ジェンダー秩序の本質


出典が明記されていない引用はすべて「ジェンダー秩序」(江原由美子著、勁草書房刊)よりの引用です。pが付いているのはすべて「ジェンダー秩序」のページ数です。「著者」とは「ジェンダー秩序」の著者のことです。また、小見出しの題名は読者の便宜を考えて、私の考えに反するものもなるべく著者の使用したものと同じものを用いました。


■1 基本枠組みの検討

◆第1章 予備的考察

★性差のありか

この本では「生物学的性別はけっして男女を明瞭に区分するものではない」(p4)として生物学的性別の導入を拒否します。しかし、男性、女性は生物学による区別を基礎とする概念です。しかも、生物学的区別による男性はほとんどが男として振る舞い、生物学的区別による女性はほとんどが女として振る舞います。私はその男らしさ、女らしさ、すなわち観察可能な男女の性差がどうして生じてくるのか考えたいと思います。その前提として、男性、女性を定義したいと思います。まず、女性が定義されます。女性とは子宮とその附属器官(以後、「とその附属器官」は省略します)を持って生まれた人です。男性とは子宮を持たずに生まれた人です。生まれによって区別するのは女性が出生後、病気などで子宮を失うことがあり、その人たちを女性に含めるためです。また、彼女たちは子宮を持っていたことなどで既に女性性を有しています。そして、この女性の定義の理由は女性の本質が産む性であるからであり、子宮がその本質を最も良く表しているからです。これに対して、男性は産まない性・産ませる性であることになります。
男女の生物学的性別については次のように考えられています。

「男女の性別はいろいろな点からなされます。
@細胞の立場からは、男性は核の中の性染色体がXYであるのに対して、女性はXX。オリン
 ピックなどの競技スポーツでは、選手の男女の同定はこの方法が採用されている。
A性腺として男性は精巣を持っており、女性は卵巣を持っている。
B内性器では男性は精嚢と輸精管を持ち、女性は卵管と子宮を持っている。
C外部生殖器の形が男性と女性で違う。
D男性はよく発達した筋肉と低い声を持っており、女性は豊満な乳房と高い声を持っている。
E脳の構造が男性と女性では違う。それに伴って心、行動の上で男女間の差が生じる。」
「脳を活性化する性ホルモン」(鬼頭昭三著、講談社ブルーバックス、88〜89頁)

@が遺伝子による性別(遺伝的性別)、ABCが生殖器による性別(生殖的性別)、Dが肉体の特徴による性別(肉体的性別)、Eが脳、すなわち心の性別と行動に表れる性差を述べていると言えるでしょう。
 このうちEの心の性別については、私の考えによると、二つに区別されます。すなわち、生物的形質による性別(生物脳)と心理的構造による性別(心理脳)です。生物脳は誕生時の脳の性分化により決定され、脳の形態が男性と女性とでは異なるようになります。心理脳はそうして決定された生物脳がどのような構造特性を有するかによる区別です。考えることは脳神経を配線することです。生まれてからの考え方が男性的か女性的かにより脳の内部の構造が決まって行き、それが性別に応じた特性を示すということです。
 私は生殖的性別が男性、女性の本質を与えると考えるのです。遺伝的性別は男性か女性かを決定するだけで、その本質の根拠ではありません。遺伝的性別により決まった生殖器が男性と女性の本質を与えると考えるのです。性が生殖に関する概念である以上、こう考えるのは自然なことです。そして、その生殖的性別を生かすために、胎内での脳の性分化時に原則として生殖的性別に一致するように生物脳が決まり、その後成長して大人の脳が形成されて行きます。生まれてからは、原則として生殖器に一致するように脳の可塑性に基づいて心理脳が形成されて行きます。この生殖的性別と生物脳、心理脳の不一致が性同一性障害をもたらすのです。
 こうした生物脳、心理脳の形成にはホルモンが働いていると考えられます。また、実際に行為する際にも影響を与えることが考えられます。

「これらの研究が進むにつれて、脳の広い部位でいくつかの神経活性物質系で性差があることがわかってきました。代表的な神経伝達物質で、アルツハイマー病と関係の深いアセチルコリン系の合成酵素である、コリンアセチルトランスフェラーゼやムスカリン性およびニコチン性受容体は、脳の広い範囲にわたってその分布に性差が見られます。また、もう一つの重要な神経伝達物質であるノルアドレナリンの受容体にも性差があります。これらの性差は嗅球から脊髄にまで広がっており、内分泌系のみでなく脳全体の活動レベルや脳の高次機能にも性差があることを物語っています。
 内側視索前野ではその大きさとは反対に、雄では雌に比べてエストロゲン受容体の数は少なくなっています。ヒトでも視床下部前野の核で、その大きさのみでなく、性ホルモンの受容体の分布に多少の性差があり、男性の方が少ないことが知られています。
 男性ホルモンのテストステロン受容体の脳内での分布は、エストロゲンのそれとほぼ同じで、分布上の性差についても、エストロゲンの場合と同様に海馬、扁桃体内側核、視床下部弓状核、腹内側核、内側視索前野などに見られます。
 こうした脳内のホルモンやホルモン受容体の分布による性差が、どのような形で男女の違いとなって現れてくるかは、これからの研究課題です。」
「脳を活性化する性ホルモン」(95頁より)

 著者は「ジェンダーという概念は、そうした観察可能な男女の性差を、男女が生得的な相違としてではなく、社会的文化的に形成された相違として見るという仮説を含んでいる。」(p4)と主張します。しかし、私は観察可能な男女の性差は社会文化的に形成された面があることを認めますが、性差の基礎には男女の本質が働いているという仮説を考えます。したがって、著者の仮説を共有しないので、私の考えに基づく性差を「生物文化的ジェンダー」と記すことにします。
「このジェンダーという概念が生まれてきたきっかけは、観察可能な男女の行動や態度や能力の相違を、男女の生物学的相違に還元するような近代の性別についての考え方に対抗するためであったからである」(p5)と述べます。私は生物文化的ジェンダーの基礎に生物学的相違を考えますが、その相違とは女性が産む性であることです。この産む性であることに基づいて観察可能な男女の性差を体系的に説明した学説は私の知る限り近代の科学には見あたりません。私の産む性に基づいて男女の観察可能な性差を説明しようという試みは、著者のように性差のすべてを社会文化的に説明してしまおうという仮説を立てるフェミニズムに対抗しようとして生まれたものです。


★心について

☆心の社会的構成

著者は心にかかわるふるまいの研究こそが心の研究そのものだと主張するためにクルターに言及します。しかし、この本の説明で判断する限り、クルターが述べるのは、心が脳にあることを認めた上で、直接脳を研究することはできないので、脳からの指示によって生じるふるまいなどの外観を研究する他ないということのようです。そして、脳科学が進歩した今では、やはり外部からの刺激と関連して意味を持つものですが、脳の状態を機械により直接測定できるようになっています。


☆エスノメソドロジーをはなれて

著者は「そうした性差を仮定する目的が性支配という状況を説明するモデルを立てるためであり、それを条件として性支配を論じることにある」(p14)といい、自分の考えのイデオロギー性について弁明します。
ある研究を行うときに、研究者に何らかの動機があることは確かです。しかし、研究の方法が客観的合理的なら、通常動機を問題とする必要はありません。私は著者の方法が客観的合理的かどうか検討しつつ、私の考えを検討します。


★社会的行為と権力

☆ウェーバーの社会的行為論

著者はウェーバーの行為概念が行為に主観的意味を持たせていることを批判しようとします。「社会的行為者は主観的意味を持って行動しているとされており、社会学者はそうした社会成員の社会的行為が含む主観的意味を解釈によって理解するとされている」(p16〜17)点をクルターに反するとします。しかし、クルターの方法は上に述べたようなものであり、ウェーバーの方法によっても、解釈の材料として脳からの指示によって生じるふるまいなどの外観を用いて、社会的行為が含む主観的意味を解釈して理解するなら、何ら矛盾しません。
著者はウェーバーの社会的行為の概念によると、赤信号の前で単に習慣的に信号待ちをしているに過ぎない人は主観的意味がないので、社会学の対象である行為にならないとして批判します。しかし、この人のふるまいは習慣という規範的意識、すなわち主観的意味を持つ立派な行為であり、ウェーバーの立場でも、立派な社会学の研究対象です。そして、著者は赤信号を見て意図して待っている人と「他者にどうやって区別ができるのか」(p18)と言って批判しますが、意図的か習慣的かということは色々な付随状況を解釈にして判断できますし、後でその人にインタビューすることもできます。
著者は他者との間の社会的相互行為こそ、社会的行為として定義されるべきだとして、ウェーバーの社会的行為の定義・「主観的意味の中に、他者に関わる志向が含まれている行為」が失敗しているとします。しかし、ウェーバーの社会的行為概念は社会学の重要な研究対象となる行為を確定するためのものであり、「単に他者の行動を予測しつつ行う行為」をも重要な研究対象とするためのものなのです。確かに、他者との間の社会的相互行為は最重要ですが、社会的行為に含まれる「相互社会的行為」とでも定義すれば良いのです。


☆社会的行為能力は「心」だけによっては決まらない

著者は「通常の社会学者が考えるように、行為を意図を含む行動と考えることは、私たちが他者の意図を脳の生理機能などによって直接把握しているわけではなく、心にかかわるふるまいという社会慣習を基礎にして把握しているのだということを自覚している限りにおいて、妥当なことだと思う。しかしそう考えたとしても、そのことは、私たちが社会的行為を意図だけによって行いうると考えなければいけないということとイコールではない。」(p23〜24)と述べます。ウェーバーを含めイコールだと考える科学者は通常居ないでしょう。そして、著者は他者の心にかかわるふるまいが「社会成員の社会的に行為できる能力の大きさに影響を与えることになる。」と述べます。しかし、私たちの立場では能力は行為者に帰属するものであり、他者の心にかかわるふるまいは能力行使の環境ないし状況として働き能力行使の態様及び結果に影響を与えると考えることになるでしょう。


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