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「幼少期の子育てを人智のコントロール下に置き、その責任の大半を母親に託すという考え方が登場したのは、大正期の半ば」であり、近代のイデオロギーだという。それ以前が、「幼少期は人智が及ばないとする諦観とともに、それゆえに大切に見守ろうとする考え方」を持っていたとしても、現実には世代間で伝えられる知恵に基づいた世話が注意を持ってなされていたのである。そして、家ぐるみ、地域ぐるみで世話がされていても、主たる育児・家事は母親が行っていた。田の畦に乳児の安置された籠が置かれ、母親は農作業の合間を見て世話をしていたし、日が暮れかかって農作業の能率が落ちると、母親は先に帰されて育児・家事を行い、残った者は真っ暗になるまで農作業に励んだのだ。
それ以前の社会でも役割分担はあった。素人数人よりも専門家一人の方が役に立つことが多いという事実に基づくものである。一つのことに習熟しそれが得意な者にそのことを任せた方が能率が上がるのが道理である。その役割分担がが、産業革命に伴う職住分離で夫は外で仕事、妻は家庭で育児・家事と明確になっただけである。
 この近代のイデオロギー性を例証するために、「フランスの教育学者バダンテール(一九九四)は、一八世紀後半のパリの人口統計から、当時一年間にパリで生まれた乳児二万一千人のうち、母親で育てられた乳児はわずか千人に過ぎなかった実情」をあげ、里子の養育環境は劣悪であったと言う。私の三歳児理論によれば、彼らが社会を敵対的と見なして大革命に走ったのも不思議ではないと言えよう。
 著者のよって立つ男女平等思想こそ、現代的なイデオロギーである。
 戦前よりも現在は母親失格が多いのはなぜか。
戦前にはイエ制度の下、大家族も多く、世代間で育児を分担したり、知恵を伝えることがまだ、なされていた。地域社会も根強く、母親をバックアップしていた。それに加えて戦前には男女の性差を認め、女性特有の教育が行われていた。育児・家事を母親が担うのは当然のこととされ、女性はそのことに対し覚悟をするとともに、それに立ち向かう知恵も授けられた。しかるに、現代は男女平等として上のようなことは為されず、男女が平等に育児・家事を分担することが理想だと言う。そのため女性が現実に育児・家事を担わされたときに、それに立ち向かう知恵も持たずに育児に行き詰まったり、男女平等なのにこんなはずではなかったと不満をかこつのである。家事も育児も嫌いでない女性でさえもこんなことでは無かったと不平を言うのは男女平等のイデオロギーによるのである。
「母親の内部の自己が限界を越えて肥大してしまっている」「母親の内部の自己が肥大した分だけ子どもの存在が見えなくなっている」と評論家芹沢俊介氏が言う。確かに、著者が言うように「母親が子育てに励みながら、子育て以外にも生きがいとなる生活を求めるのは、けっして自己の肥大ではない」。しかし、自己の夢の実現に囚われて子育てをいきがいとして励むことができないのは自己の肥大である。自分さがし・夢の追求に囚われて子どもが邪魔になっているのである。
 女性に母親の基礎的な適性があるのは前述のとおりだが、著者の言うように母性が作られるものであることも事実である。だからこそ、性差を認めて女性に母親となる教育を行うべきだ。社会的に母親の責任が認められ、それに知恵を持って立ち向かうときには大きな満足が得られるだろう。
 また、母性愛賛美の風潮は母性愛が作られたものであるから、必要なのである。理想を掲げることによって、母性愛を維持する努力を励ましているのである。武田鉄矢さんの母親、イクさんを例に引いて、「働き通して子育てをする女性を賛美するのなら、母親が働くと子どもがおかしくなるなどというせりふは、けっしていえないはず」と言う。イクさんのような母親は主婦でもあった。「働き」ながら、立派に育児・家事もおこなった。しかし、その「働き」は自分のキャリアのためのものではなかった。主として家族のために働いたのである。主婦を否定し、自分のキャリアのために働くことを推奨する立場のための例とはしないで欲しい。また、私は母親が働くだけで子どもがおかしくなると主張するつもりは無い。母親が母性を持つ主婦としての役割を果たさなければ子どもがおかしくなることが多いと言っているのである。
 著者の学会へのデビュー論文の一部である母親意識の世代間に対する調査結果である表一のA世代(東京女子高等師範学校時代の卒業生)が満足すべき状態にあったことが述べられ、仕事を持つ母親の正当性の論拠に使われている。しかし、A世代は成功した兼業主婦の例である。家庭においては自分も社会も女性の仕事と思っている家事・育児を主婦として行って責任を果たし、かつ学校においては女性にふさわしい仕事とされていた教師の仕事を行って社会にかかわったからこそ、深い満足が得られたのだ。
C世代(一九六〇年代半ばから七〇年代)の卒業生が育児をしても満足を得られないのは、男女平等思想の下、女も男と同じ自己の夢の追求のための自己実現を行うように吹き込まれているからだ。育児・家事は自己実現になりうるといってもそれは他者への奉仕による喜びであり、自己への奉仕である自己の夢の追求のための自己実現とは性質が違う。そのため、現実に育児・家事を負担したときにいらいらしたり、家事・育児が夢の追求の邪魔だとして嘆くのだ。それにはもちろん、周囲から援助が得られないということも寄与しているが、それは大家族を拒否し、地域社会も崩れつつあるからなのだ。だからこそ、育児・家事について教育を受け、覚悟と知恵を身につける必要があるのだ。
 しかし、夫婦である以上、夫も妻を助けるべきだと言える。特に兼業主婦の夫は積極的に援助すべきだ。しかし、それはまるごと受け止める母性としてのものではなく、父性としてのものであるべきだ。


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