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◆第6章 <諸制度><儀式><メディア><社会的活動>

★諸制度

☆商業的サービス

著者は「多くの物販商業施設は、朝一○時〜夜七時といった時間帯しか開店していない。平日この時間帯に買い物することは、仕事を持つ男女にはかなり困難である。すなわちこのような物販施設が多いということは、家族の中で誰かが就業していないということを前提としているのである。」(p247)と指摘します。確かに、主婦の買い物には都合が良いでしょう。しかし、物販施設に働く人にとっても都合が良い時間です。平日が休みの人もいるし、勤務中の休み時間もあります。営業や出張の途中で立ち寄る人もいます。会社そのものの用で物販商業施設を訪れる人もいます。
著者は「よんどころない事情以外で母親が子どもを預けることを罪悪視する日本社会の育児観は、小さい子どもを持つ母親に、重い石をくくりつけられたように行動を阻害される感覚を、味合わせるのである。」(p248)と指摘します。息抜きや、自分へのご褒美、自分の正当な休暇として子どもを預けることは理解が進んだ現代日本ではそれほど罪悪視されていないし、認められるべきことでしょう。
育児を責任主体として主婦が担うべきだと考えますが、他方、美容院や音楽会、美術館などを利用可能にする一時的な幼児の預かり施設が整備されるべきだと考えます。
著者は「実際、子どもを持つ母親の、映画鑑賞や美術鑑賞行動など文化的施設の利用は、非常に少なくなってしまう。」(p248)として、「明確なジェンダー間の行動格差をもたらす」と指摘します。しかし、「格差」といいますが、男性も仕事に時間をとられあまり鑑賞しなくなりますし、育児を終えた主婦が男性以上に鑑賞を楽しんでいるのは事実です。
著者は「夜遅くまで酒と食事を男性客にふるまうことを主力商品とする店では、女性従業員の性的魅力まで利用して男性客を集客しようとする。こうした商業施設が大量に存在する背景には、男性は家事・育児の義務がないので家にいつ帰ってもよい 家庭の主婦である女が夜遅くまで外出しているべきではない 女性の夜歩きは危険なのであまり遅くになるまで外出しているべきではない 夜遅くまで働いている女は性的対象として扱われても当然である」(p248〜249)などの社会通念が作用していると指摘します。夜遅くまでの店に出入りする男性には、早く家に帰りたいが、つきあいで仕方なくという男性も多くいます。女性は家事を行うなら事実、夜遅くまで外出するのは困難です。一夫一婦制のもとでは互いに貞操義務がありますので、危険を伴う女性の夜歩きは避けられることになります。「夜遅くまで働いている女は性的対象として扱われても当然である」という考えを私は初めて知りました。このような考えは一部の偏見であり、とうてい社会通念とは言えません。
著者は「牛丼屋や駅ソバ屋の利用客の男女比は、圧倒的に男性に偏っている」(p249)ことを指摘します。これは美しい図ではないから、女性が避けるのでしょう。
「年配の女性たちの中には、一人で外食することに対して非常に大きな抵抗感を感じる人もいる。その背景には、女性が外出すること一般に対する性別分業に基づく抵抗感があると思われる。」(p249)と指摘します。しかし、男性でも女性でも一人で店にはいるのは楽しくないし、気が引けるし、それが知らない店なら一層そうです。それに、年配の女性の慎みが加わって抵抗感が増すのでしょう。
著者は「主として男性客を、あるいは男性客のみを想定している商業施設・店舗」(p249)として「公営ギャンブル関連施設、バッティングセンターやゴルフ場などの一部のスポーツ関連施設」も挙げます。しかし、公営ギャンブル施設は女性の利用を積極的に歓迎しています。背後には女性客が増えれば女性に引かれて男性客も増えるという現象があります。それはスポーツ関連施設も同じです。また、女性客の利用も珍しいことでは決してありません。
「他方、女性客のみを客層として想定している商店もある。それは、基本的に、化粧品店・ブティック・美容院・エステティックサロンなど、外見に関わる商業施設である。」(p249)。女性が美に関わる商業施設に関心を持つのは心性からして自然です。これらの商業施設に見られる男女の違いは、男女の心性の違いとそれから導かれる好みの違いによるものです。
著者は「買い物行動に関連しては、日用品や食料品の買い物を女性に、耐久消費財や車や住宅などの高額商品の購入を男性に割り当てるジェンダーも、未だ健在である。」(p249〜250)と指摘します。しかし、日用品や食料品の買い物は、家事・育児に責任を持つことから主婦に自由裁量で買うことが授権されており、これに対して耐久消費財や車や住宅などの高額商品は高額であるが故に家計に重大な影響を及ぼすので、夫の同意も必要とされるのだと考えられます。
著者は「男女二人で来店した場合、店員の説明は主要に男性客に向けられる場合が多い。」(p250)と指摘します。商品にもよりますが、まず男を立てて、男性客のブライドを満たすと共に、女性客に対しては男を立てる女性として扱って、スムーズな関係を形成し、その上で、男性客は決定に際して、連れの女性の意見を尊重し同意を求めて得られないなら、店員は女性客に向かって説得を開始するということでしょう。
著者は「女一人ではばかにされてしまうのではないかと不安がる女性もいる。」(p250)と指摘します。社会通念として女一人の客を馬鹿にするようでは商売人失格と言えます。
著者は日本の銀行が「女性は現在働いて収入があったとしてもその稼働力をそのまま評価してもらえないことが多い」(p251)「女性事業者への貸ししぶりがある」(p251)と指摘します。現在は不況で男性事業者に対しても銀行は厳しく当たっていますが、女性にだけそのような事実が存在するなら是正されるべきでしょう。


★病院

著者は「命に関わるような病気の場合、日本の多くの病院では、患者本人にそのことを告げる前に、家族に病状を告げる。告げる家族としては、患者の夫や父親や長男など、家意識に基づく序列関係で最も近い男性が、好んで選択される傾向がある。女性が最も近しい家族の場合には家族の近しい男性を伴ってくるように指示されることが多い。患者の治療に関する意思決定の責任を、男性にとらせたいという意識があるものと推測される。」(p251〜252)と指摘します。確かに、男性は面目を潰されることを嫌うので、意思決定から外されると騒ぐ傾向があります。しかし、命に関わるような病気の告知の場合、女性が取り乱すことが経験的事実として多いので、医師が女性を避けるという面もあると考えます。女性が最も近しい家族の場合は、女性が取り乱すことがないように男性を伴わせるのだと考えられます。
著者は「実際には入院患者の身のまわりの世話をほとんど家族に依存してきたのであり、家族とは暗黙に女のことであった。」(p252)と指摘します。身の回りの世話が女性に任されてきたのは、主婦が存在すること、一般的に言って女性が優しく他人に配慮する存在であることからです。
著者は「病院自身が男性の付き添いを病棟管理上問題であるとして明確に拒否することもある。」(p252)と指摘します。確かに、問題です。男性は女性よりも性欲に悩むことが多く、女性は淫乱な女性を除くほとんどの女性が性のことで問題を起こしません。
著者は「付き添いの女性のためには、宿泊施設も食事施設も入浴施設も整備されておらず、女性は狭い病室の中で、患者のベッドの横の床や簡易ベッドで寝るよう強いられる。こんな生活」(p252)を指摘します。これは改善されるべきものです。しかし、これには次のような背景があります。病院は第一に患者のものであり、患者の治療が最優先です。そして、病院経営上、なかなか付き添いの人にまで資金が回りません。「この状況は、病院付添婦の廃止によって変化しているが、廃止とともに増員されたはずの看護婦の人数では、患者の世話を充分に行うことはとうてい困難であり、かえって患者や家族に負担を強いている。」(p252)と指摘します。付き添いの人の環境が改善されて法定の基準を満たした病院に限って付き添い婦を復活させてよいのではないでしょうか。また、世話をするという活動に対する理解の運動が進められるべきでしょう。
著者は男性が泌尿器科、女性が産婦人科に分かれていることを指摘します。女性の心と体に適合した女性専用外来が推進されているように問題はないでしょう。「妊娠の喜びにうきうきしている女性と並んで、不妊や習慣性流産で通院している女性が診察を受けなければならない状況があるのである。」(p253)と指摘します。次のような制度的改善を提案します。不妊治療を行う病院では産婦人科内に不妊科を設けます。外部に対して不妊科という表示はなされません。しかし、病院内では産婦人科から離れたエリアに不妊科を置き、産婦人科の患者とは異なった出入り口を使用できるものとします。不妊科も当然、夫婦で受診できます。


☆社会保障・公共サービス

著者は今の年金制度が「女性が離婚した場合に女性に非常におおきな不利益をもたらす制度」(p253)として指摘します。主婦として働いた女性に対しては、結婚期間に得られた夫婦双方の年金の基盤を合計して二分すべきだと考えます。主婦は家事・育児という立派な労働に対して市場によって評価された報酬を受けられずに、夫の報酬に依存する弱者であることや、その倫理性からして保護されるべきものだからです。
著者は「警察や司法も、一つのジェンダー体制として機能してきた」(p254)と指摘します。警察は実力の行使を行います。司法は、特に検察は他者に厳しく接する必要があります。男性が多くなるのは自然です。性犯罪やドメスティック・バイオレンス問題などでは理解のある女性を活用すべきでしょう。


☆公的家父長制

著者は「機能分化し専門的サービスを担うようになった組織や機関は、基本的に、その業務を職業として行う人々によって組織された。この過程において、職住分離が生まれ、女性は私的領域である家族において再生産・無償労働を行うよう、配置されたのだ。」(p255)と指摘します。しかし、職住分離以前にも役割分担は行われており、職住分離により男性の職場が外になったに過ぎません。
役割分担に基づいて、女性の数が多くなる職場もあります。看護の世界、保育の世界、秘書の世界、客室乗務員の世界などでは、女性が主流です。主婦が家庭という職場を持つので、その他の職場で、男性が多くなるのはそのとおりです。
しかし、それぞれの職場は合理的な役割分担に基づくものであり、支配などは存在しません。不当な差別も存在することを認めますが、ほとんどが男女の性差に基づいて自然に現れた傾向に過ぎないのです。
「現代フェミニズムが、様々な専門領域において、言説分析や言説批判を行いながら試みているのは、こうした各専門領域を基礎づけている専門知識そのもののジェンダー・バイアスを洗い出すことを通じて、公的家父長制を洗い出そうとしていることとして位置づけうる。」(p257)と指摘します。著者の試みは、生物文化的ジェンダーを無視して本質隠蔽すると共に、個々の現象についてはその合理的根拠を無視し、できるかぎり性支配、性差別として描き出そうとするものです。フェミニズムのそのようなイデオロギー的傾向を「逆ジェンダー・バイアス」と呼びたいと思います。


★儀式

☆結婚式・葬式

著者は「儀礼や祭礼や行事において、お茶や食事や酒のふるまい、部屋の飾り付け、客人の接待などの活動は、女性に主として割り振られている。」(p258)と指摘します。これに対して、男性には運搬や設営などの力仕事や大工仕事が主として割り振られています。
著者は「結婚式の花嫁・仲人の妻・花嫁・花婿の母など、当事者の女性にも、話す機会は与えられない。女はただ衣装をつけてその場の意味を表示するだけである。」(p259〜260)と指摘します。確かに、伝統的な結婚式ではそのような傾向があったでしょう。しかし、伝統的結婚式でも花嫁は重要な位置を与えられ、儀式の一方の主役を務め、宴では話題の中心だったでしょう。これが、現代式ともなると、花嫁が前面に出てきて、花婿が花嫁の引き立て役ではないかと思われるようなこともあります。女性にも話したければ、話す機会は与えられるでしょう。
著者は「女性は裏方の労働を多く担うのに、儀式そのものでは見物にまわってしまう。」(p260)と指摘します。しかし、表に立って責任を担うより見物は気楽で楽しいものでもあります。


☆法事・祭祀・墓

「たとえ実の両親をまつる行事においても、娘では執り行うことができ」(p260)ないという沖縄のトートーメー問題は是正されるべきです。
家の継承が父系主義であることは、家の維持のためにはしかたがないことです。理想型を考えると、母系主義だとすれば、同じ母の子は平等ということになり、女性が複数の夫を持つことが肯定される傾向になります。この状態で、乱婚を避けるためには男性が一人の女性だけを相手とするという規範が樹立されなければなりません。しかし、この規範は欲望の強い男性に困難を与えるものです。これに対し、父系主義ならば、女性が一人の男性だけを相手にすることを規範が必要ですが、相対的に欲望の弱い女性には容易です。この結果、家が安定して維持されます。そして、男性は自らの家を守らねばならない反面、女性は自分の嫁ぐ家を選択できるという面もあります。
仏教は男女対等の立場からも肯定できない性差別は廃止しして行くのが賢明でしょう。


☆女性を男性の人格の下に覆い隠す制度

主婦が居て共同して家庭を運営している世帯は、町内会の名簿、町内会の祭りの寄付者名、葬式の記帳名、PTAの名簿、電話帳などには、夫婦双方の名前が記載されるべきだと考えます。


☆年賀状・挨拶状

主婦が居て共同して家庭を運営している世帯は夫婦共同の名前を使い夫婦共同の宛名に出すことが推進されて良いでしょう。香典の額における男女差があるなら、撤廃されるべきでしょう。


☆人前では夫を立てる

人前では夫を立てることにより、表に立った夫が他の男性と渡り合い、妻が守られます。妻が助けることで夫の勝利の確率も上がります。夫は自らの誇りを守る機会を与えられると共に、女性は自らの道徳性に自信を持てます。
著者は「実際の活動をほとんど女性がしたとしても、その活動は夫たちの名前のもとに帰属される。」(p264)と指摘します。これに対し、我々は男女共同叙勲表彰制度を提案しています。



★メディア

☆メディアとは何か

全世界的に女性の識字率が向上されるべきです。そして、男女対等の考え方が行き渡れば、過去の文書の偏りも影響力を失い歴史的なものに過ぎなくなるでしょう。


☆学問のジェンダー・バイアス

著者は「それが作り上げられてきた時代においては、女性たちは基本的に、学問世界に参加することはできなかった。したがってそれぞれの学問の問題関心そのものにおいてすでに、ジェンダー・バイアスが存在するのである。」(p268)と指摘します。男性が作り上げたとしても男性も女性と同じヒトという類に属します。人間として関心を共有しうるものが大部分だと考えます。男性の視点と言うより人間の視点に基づいて学問を形成したというのが適切です。但し、男性は徹底的な真理の追究を行って遠くへ到達しようとするのに対して、女性は身近なものへの眼差しが特徴的です。男性が学問を行うときに女性の視点が含まれにくいのは事実です。女性が独自の視点を提供することは歓迎すべきことです。女性の関心に沿った学問分野や学会を作り、女性の視点で展開して行くべきでしょう。しかし、あくまでも科学的に為されるべきであり、フェミニズムのイデオロギーは排斥されるべきです。


☆メディア発信とメディア接触のジェンダー体制

著者は「通勤電車の中で新聞を広げている人の性比は、圧倒的に男性に偏っている。まず男性は女性に比較して、通勤の途中で新聞を買うという行為をより多く習慣化している。駅の売店にある新聞の中には、家庭には配達されないポルノ的な読み物を含むスポーツ紙(いわゆる夕刊紙)がかなりの比率を占めている。」(p269〜270)「テレビドラマなどの場面を見る限りにおいては、食卓で新聞を読むのも圧倒的に男性に偏っている。」(p270)と指摘します。ここで指摘されているのは単なる社会現象か、個人的習慣に過ぎません。男性が新聞と結びつくのは、社会公共の事件に関心が深く能力開発に熱心な男性が比較的に多いからです。
著者は新聞を広げる行為に関連して「男らしさとは時空間をできるだけ多く占有することを意味」(p270)すると解釈します。私はそのような男らしさを初めて知りました。社会通念としてもそのような男らしさは認められていないと考えます。新聞を広げるのは単に見やすいからに過ぎません。そして、周囲への気遣いが少し足りない男性もいる結果に過ぎません。
著者は「女性がメディアの世界に入り込んでしまうことは、周囲の家族に対する世話を怠ることに通じる」(p270)という行動規範を指摘しています。このような行動規範も疑問です。あるとしたら、男性も含めて人間がメディアの世界に没頭することは周囲への関心を失わせるというような一般的なものでしょう。確かに、主婦が家事を行わずにテレビを見ていたら家族は不満を持つでしょうが、家事を立派にこなす主婦がテレビドラマを夢中で見ても誰も非難する人はいません。


☆雑誌・新聞

心性に応じて男性女性の一般的な好みの違いが存在し、それに基づいて男性誌、女性誌が分かれます。男性誌が一般紙とされるのは、男性に公的分野への関心が高く、公的=一般的とされるからです。また、公的分野には女性も関心を持てるし、持つべきだからです。
著者は「男性が女性向け漫画雑誌を読むことには、女性が男性向け漫画雑誌を読むことに比較して、より大きな抵抗感があると思われる。」(p271)と指摘します。男らしさを維持するには規範としての性質上、比較的に努力を必要とします。女性的なものに触れることで、自らの男らしさの基盤が掘り崩れるのではないかと抵抗感を感じるのだと思います。


☆受け手のメディア選択とジェンダーの構築

著者は「一般向けメディアが暗黙に男性向けであることによるメディア一般への関心の低下や、メディアに対する発言権についての予めの自己限定をも、同時に生み出している可能性がある。」(p274)と指摘します。しかし、テレビ・ラジオなどのマスメディアは十分女性を意識して作られていますし、自由主義が普及している現在、言いたいこと言うべきことがあるのに女性だからと言う理由で自己限定する女性はそれほど多くはないのでしょうか。
著者は「男性の問題関心に基づく世界像を客観的世界像として正当化する言説が大量に流布している」(p274)と指摘しています。しかし、男性の問題関心に基づく世界像をそのように規定するなら、女性の問題関心に基づく世界像も客観的世界像と言えなくなるでしょう。したがって、テレビのニュースなどは男性女性双方の問題関心に注意を払うべきこととなります。


★社会的活動

☆伝統的な中間集団における女性の周辺化

著者は「このほとんどすべての中間集団における女性の周辺化は、全体としてはグループとしての女性の意見が、法や制度にほとんど反映されないという巨大な不公平さを作り出すことになった。」(p276)と述べます。中間集団は独裁的集団ではなく、民主的集団であり、優れた女性の意見が法や制度に反映されないわけではありません。グループとしての女性の意見とはフェミニズムの運動を念頭に置いているのでしょう。しかし、ジェンダー・バイアスが存在しうることは認めます。したがって、女性の関心・問題意識に基づく組織や集団を作ることは良いことです。ただし、それがこの論文で否定するフェミニズムというイデオロギーの指導下に入ることは望ましくありません。フェミニズムは女性の関心・問題意識の基礎にある女性性を消滅させようという運動だからです。また、伝統的な中間集団にも独自の意義と役割があり、否定されるべきものではありません。
著者は「政党活動において女性党員は、男性党員と比較して役員に選出されにくいことを意味している。」(p277)と指摘します。男性は公的分野への関心が強く、熱心に政党活動を行うので、役員に選ばれやすいと言えます。また、女性は多くが主婦として家事・育児に責任を持つので、重い責任を持つ政党の役員には選びにくいと言えます。その主婦が党員にも多いので、役員が少なくなると言えます。しかし、政党は女性部により、女性の関心・問題意識を意識的に吸い上げ、女性部の役員に党全体の役員の一部を制度的に割り当てることが認められてよいでしょう。
著者は「一部の政党においては、タレント業や女優業によって名声を得た女性たちを候補者とする場合が非常に多い。そこには、女性の性的魅力を含む人気によって票を獲得しようとする意図が見てとれる。また女性の候補者のもう一つの形は、父親や夫の死後選挙区を受け継ぐ形で妻や娘が候補者となる場合である。また女性の選挙公報や選挙カーでの選挙活動においては、好んで妻・母としての活動歴が強調される場合が多い。」(p279)と指摘します。これらは女性候補者を増やすと共に、女性候補者に武器を与えています。
著者は「男性の議員候補者の妻たちは、選挙活動において、夫を支える活動を行うことが期待されている。」(p279)と指摘します。女性候補者の夫たちも妻の選挙活動を支えることが期待されているでしょう。


☆家族とのかかわり

育児期を脱した主婦は余裕を持ち、官製の運動体(地域婦人会・更生保護婦人会・生活改善運動など)に参加して自己実現を図ってきました。確かに、この運動はジェンダー秩序を強化してきた面があります。しかし、ジェンダー秩序・体制にも不当なものもありますが、合理的根拠を持つ正当なものが多いのです。そして、男女対等の立場から見て、女性の役割として肯定される官製活動は積極的に推進されるべきです。


☆女性の社会的活動の新しい流れとNPO活動

著者は「女性の自立を実現しつつあるかに見える仕事を持つ女性たちの方では、家庭生活と職業両立に精一杯で、社会的活動に参加する余裕すらなく、女性の自立を主張できる時間的余裕を持つ女性たちは自立できない…。」(p283)と述べます。仕事を持つ女性たちが自立しているのに不十分だというのは、フェミニズムに参加しないということでしょう。そして、女性の自立自体はとりあえずの目的であり、フェミニズムの目指すべき目標ではないということです。そして、余裕のある女性たちが自立できないと言っているのは単にフェミニズムに組織されないことを言うのでしょう。余裕のある女性たちの活動をフェミニズムがイデオロギーに基づいて批判することで、彼女たちの自己実現が妨げられるとともに、彼女たちが支える市民運動を抑圧しています。彼女たちの地道な活動によって支えられるべき社会を暗くしているのです。女性運動は男女対等の立場に立って、合理的区別を支持するとともに、不合理な差別に目を光らせるべきです。そして、主婦の自己実現の運動を妨げるようなことがあってはなりません。


★ジェンダー体制の記述とは何か

ここで、著者は社会構築主義との関わりで自分の立場を説明して弁護しています。前述の通り、社会構築主義とは都合が悪いので本質を無視しようという非科学的イデオロギー的な間違った立場です。
私はここで、社会科学に関する自分の立場を述べておきます。人間は構造化された構造です。社会には客観的構造が存在します。客観的構造を主体的関心にしたがい、科学的方法を用いて分析することで、分析結果が得られます。その分析結果は「ある程度」客観的なものであり、他の客観的な分析結果と整合性を照合することで、十分な客観性が得られるとともにその意味が分かります。また、人間が持つ認識構造は意図的に客観的合理的な考え方を内面化することで、客観的合理的になり、それにより「ある程度」をより客観的合理的にできます。こうした照合を積み重ねることにより、客観的合理的な理論体系が可能です。そしてその客観的合理的理論体系は分析の道具となるとともに、照合の道具となります。

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