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正義論

 自由が正義だ。平等が正義だなどと様々な概念が正義だと主張される。また、自分が正義だなどと言うものさえいる。これらすべてが正義だと考えることは当然できない。これらの主張はそれぞれが正義だと主張するものが正義という概念の中核と同じ程度に正しいと叫んでいるにすぎないものと考える。では正義という概念の中核は何か。「義」とは元々、「すじ道」のことである。だから、正義とは正しいすじ道を示すものでなければならない。また、正義とは価値の分配に関わる概念である。そして、正義の課題とは共同体の秩序を守ることである。正義という概念の中核は共同体の秩序の維持に効果がなければならない。従って、正義とは価値の分配のすじ道を示すことで共同体の秩序を維持する効果を持たねばならない。
 ここで、まず想起されるのはハンムラビ法典にさかのぼる古い概念、「目には目を、歯には歯を」というすじ道である。この同害報復の概念は刑罰の基礎を支えるものとして正義の典型だとされてきた。現代でも正義という概念の中核にはこれが含まれるべきであろう。そして、そのすじ道としての意味を「悪に比例して不利益を与える。」と一般化できる。そして、価値の分配の全体を示すために、それとの均衡を考えて、「善に比例して利益を与える。」という「利益」に関するすじ道も追加されるべきだろう。すなわち、正義とは、「善に比例して利益を与え、悪に比例して不利益を与えること」とされるべきだろう。ここに言う善悪の概念は「新しい幸福の原理」で既に明らかにしてある。
 この正義の概念は平たく言えば、勧善懲悪の効果を持つ。法がこのような原則に貫かれれば、社会秩序が維持されるとともに善の拡大が期待できる。一般の人も広く支持できるのではなかろうか。
 そして聖なる者は他者に大変大きな利益を与える善性を持つが故に、大きな利益を与えられるべきであるのに、聖者は自らその利益を拒否するか、善行に振り向ける。そんなところにも、聖性の基礎があると言えよう。

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