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◆第3章 構造と実践

★人格と社会関係

著者は「心あるいは人格は、発話あるいはふるまいの一連のまとまりとして把握されることになる。」(p62)とします。しかし、その人に特有の性質が生じる原因はその人が持つ本質、すなわち知性・感性・意志にあり、実体を持つのです。

★構造と実践

☆規則的な社会実践

「構造化の理論の最も重要な定理は社会的行為者のおのおのは、本人がメンバーである社会の再生産の諸条件について十分な知識を持っているということだ」(p71)と言います。これは、そのような知識を有している、つまり内面化している主体が実践を行うということです。


☆ブルデューにおける構造と実践

著者はブルデューの「問題なのは構造の実在論から逃れることだ。」(p73)という言葉を引用します。しかし、構造特性を支える実体が存在しないわけではありません。人間の心は構造化された構造という実体を持ちます。物は構造特性を発揮する機能を持つことで構造の実体となります。規範を含む制度文書には構造特性が書き込まれています。


☆ハビトゥス

「ハビトゥスとは、持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステムであり、構造化する構造として、つまり実践と表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造である。」(p74)「それはリスクと可能性を計算し利益を見込む。」(p75)
ハビトゥスは脳内にあり、脳内において構造化された構造であり、脳内においてリスクと可能性を計算し利益を見込む実践を行っています。


☆ギデンズとブルデュー

著者はギデンズとブルデューの「両者とも、行為の意味を個人の内面に求めるような行為のとらえかたではな」(p76)いと述べます。しかし、ギデンズの言うとおりに行為と構造は相互方向に構造化されていますか、行為が心(知性・感性・意志)に依存していることも明らかであり、ギデンズもそのことは否定しないでしょう。また、ブルデューのハビトゥスも心により実践されるものです。


☆性支配論への含意

著者は「第一に、構造は、実践や社会的相互行為と独立したものではなく、それと密接不可分なものとして把握できるということであり、第二に、そのためには実践や社会的相互行為を、固有かつ独自なものとして把握するのではなく、ある程度規則的あるいは持続的なものとして、把握しなければならない」(p78)と述べます。構造が実践や社会的相互行為と密接不可分であるのはその通りなのですが、だからといって個性的な心を持った人間が行う行為や実践が固有かつ独自なものとして現れることに目を瞑ろうというのはイデオロギー的です。また、固有かつ独自な行為と、構造が実践や社会的相互行為と密接不可分であることは、両立します。現実はそのような構造をしています。


★権力と支配

☆支配の内実

著者は「規則づけられた実践あるいはハビトゥスに基礎づけられた実践は強制されるものではない。むしろ行為者によって(半意識的に)積極的に採用されるものであり、その意味では自発的になされるものである」(p81)ので、他に支配の内実を求めなければならず、次にそれについて論じると言います。確かに、通常の支配という概念は関与者の行為選択を抗しがたく方向付ける威力の存在を前提にしてそれを権威として服従するという意味を持ちます。そして、ある支配に対して不当というイメージが出てくるのは強制が関わっているからです。主に、著者の支配概念に不当というイメージを与えるに相応しい実質があるかどうかという観点から著者の支配論を検討していきます。


☆ギデンズにおける権力と支配

※著者による説明
社会的実践  コミュニケーション 権力  サンクション
社会システムの構造 意味作用   支配 正当化
構造化の諸様相   解釈図式 便益 規範 


著者はすべての社会的実践は三要素を伴い、それと並行して社会システムの構造は三要素を伴い、構造化の諸要素にそれぞれ結びついていると述べます。そしてギデンズの立場では、「資源の非対称性が相互行為システムの権力関係、すなわち支配を意味する」(p84)と説明します。しかし、ギデンズの立場からは支配という概念に不当というイメージを与えるに相応しい実質がありません。ギデンズは社会システムの構造一般に支配という特性があるとしているからです。すなわち、あらゆる社会システムが支配のシステムであることになり、あらゆる社会システムが不当だとは到底言えないからです。


☆ブルデューにおける支配

著者はブルデューの社会的世界の正統的見方を押しつけるための闘争を意味する象徴闘争について説明し、その闘争において勝利の鍵となるのが、過去の闘争の中で獲得された社会的権威である象徴資本であるが、その分布に偏りがあるので、象徴闘争の結果が、不当なものになると述べます。確かに、象徴資本の偏りは不当な影響を及ぼしえますし、不当な影響もあります。しかし、象徴資本の獲得は大部分がその世界のルールに従って努力した結果得られた正当なものです。ある人が象徴資本を持つのはその人の努力の成果であることが大部分です。そして、象徴資本が不当な方法によって得られないために、例えば、学問の世界では真理が絶対の基準となり、政治の世界では、客観性、合理性、政治倫理などが判断基準として貫徹されるのです。現代は実力主義の世界であり、象徴資本の分布に偏りがあることから、一般的な不当性は出てきません。男性と女性の間で偏りがあるのを不当とするなら、それは男女平等イデオロギーに基づくフェミニズムからの主張です。


★相互行為水準の権力と支配/社会的地位水準の権力と支配

☆相互行為水準における権力と支配

著者の相互行為水準における支配概念が明らかにされます。「支配は、この相互に権力を行使しあう関係において、一方が首尾よく権力を行使できる度合いと他方が首尾よく権力を行使しうる度合いに著しい相違がある場合に、この両者の間になりたつ社会関係」(p107)として定義されます。しかし、この概念に当てはまるだけでは不当というイメージを与えるに相応しい実質はでてきません。この支配概念に多数の一般的社会関係が当てはまります。会社の上司と部下、学校の教師と学生、家庭の親と子、家族の兄と弟、宗教の師と弟子など。いずれも双方向に実践を行いますが、先にあげたカテゴリーが首尾よく権力を行使できる度合いは、後で上げたカテゴリーが首尾よく権力を行使しうる度合いよりも著しく多いのです。ですから、著者が相互行為水準における支配だと断定しても、それから直ちに不当というイメージを与えるに相応しい実質は出てきません。個々の社会関係の根拠などが有する実質を検討する必要があるのです。


☆社会的地位水準における権力と支配

著者は「社会的地位の水準における性支配とは、大きな権限を持つ地位にある人々の性比に相違がある場合に見いだされることになる。」(p108)とします。ある地位を占めるあるカテゴリーの人々の割合が、全体に占める存在割合よりも、大きいとしても、そこから直ちに不当という結果は出てきません。まず、地位に占める割合が大きいのは、その地位獲得競争に参加する割合が、他のカテゴリーの人々よりも高いことが考えられます。また、正当な努力の結果、偏りが生じることがありえます。男女の性比をそれだけで問題とするなら、それはすべての地位が男女半々でなければならないとするフェミニズムの男女平等イデオロギーの立場に立つからです。


★私の立場

以上、「ジェンダー秩序」の総論部分を検討して、極めてイデオロギー性が強いことが分かりました。イデオロギーとは科学と反対の方向性を特性とするものです。科学は理論を現実に一致させる方向を堅持するのに対し、イデオロギーは理論・思想に現実を一致させようとするものです。著者のイデオロギー性は本質を隠蔽しようとすることに明らかです。ここで、「ジェンダー秩序」の各論を検討する前に、生物文化的ジェンダーの基礎を明らかにしたいと思います。
女性の本質が産む性であることは既に述べました。女性は子宮の内に他者を持ち、他者を守って産まなければならない存在なのです。その本質から次のようにして脳に構造化される心性が導かれます。以下に述べるのは一般的なその心性の傾向です。
1.女性は胎児という他者を体内に抱え込みます。女性がその他者を排除するような心性を持っているならば、胎児が邪魔になってしまい、人間種族の子供が安心して生まれてくることができません。ですから、女性は他者に対して優しい心性を持つのです。
2.女性は体内で胎児を安全に育成し、安全に出産しなければなりません。ですから、女性は胎児の状態に気を使い、胎児の安全に配慮しなければなりません。このため女性は他者の欲求や必要に敏感で他者に配慮する心性が導かれます。また、周囲に争いがあれば、危険が生じてしまいます。ですから、女性は争いを好まず、平和を愛する心性も持つのです。
3.女性は胎児が安全に生育して産まれるように胎児に関心を持つ必要があります。女性は胎児という極めて身近な存在に関心を持つのです。そこから、同じ身近な細々としたものに関心を持つ心性が導かれます。
4.子供を産むには、その前提として男性を引きつけなければなりません。自分が男性を引きつける手段として女性は美を選択します。能力を選択するなら、能力を競う男性との争いが生じますし、美ほど強力ではありません。そして、男性の側に子供を守ることのできる能力を要求します。
5.女性は自分が体内で守って産んだ子供に愛着を感じやすいでしょう。自分が産んだことから責任感も生じやすいでしょう。上に述べたことから産まれた子供にも優しい。そして、乳房という子供を育てるのに適した母乳を与えることのできる器官を持ちます。
これに対し、男性には上述の心性の一般的傾向は存在しません。しかし、優しい男性や、争いを好まない男性、身近なものに関心持つ男性、美に関心を持つ男性、子供に愛着を感じる男性の存在を否定するものではありません。女性にだけ上に述べたような心性をセットとして生じさせる本質があるということです。男性は産むという人間種族にとって大きな役割を果たすことができないので、能力により、自分の存在意義を証明しなければなりません。女性のように一般的に身近なものに引かれる心性がないので、遠くのものへ関心を持ちやすくなります。それは能力を磨くためにも役立つのです。また、女性のように守るべき存在を抱えこまないので、攻撃性を発揮しやすくなります。このようなことから、遠くへ行くことを躊躇わない心性、物事を徹底することを躊躇わない心性が導かれます。
以上のような心性が脳という心に内面化構造化されるのです。このことから、生殖器官の相違の他にも女性と男性の体には相違が産まれるのです。私の第一哲学の立場では人間は精神が平等だが、物質が不平等とされます。男性と女性は同じ人間であるにもかかわらず、一般的に言って不平等な物質である体を持ちます。しかし、体は不平等でありますが、精神が平等であることにより、人間存在としての平等を基礎づけることができます。
ここで、私の考える生物文化的ジェンダーの意味を明らかにしておきます。
a.生物的事実としてのジェンダー。これは個々の女性、男性が持つ心性(脳に構造化されている)や生殖器官などの物質的事実としての性差です。
b.個人的規範としてのジェンダー。あるべき女らしさ・男らしさを個々の人間が心に内面化したものです。
c.社会的事実としてのジェンダー。人間の行為や書かれたもの、話されたものに見られる性差です。
d.社会的規範としてのジェンダー。大部分の人間が共有するあるべき女らしさ・男らしさです。
人間は生物的事実としてのジェンダーという異なる心性を持ち、その傾向と個人的規範としてのジェンダーによるイメージに従って、書いたり、話したりなど行為しますが、その行為は社会的規範としてのジェンダーにより、制約されているという関係にあります。
また、b.には重要な役割があります。a.に基づいた心性が行き過ぎた行動となるのを自分で抑えることができるのです。著者はa.とb.を完全に無視しています。
b.についてさらに説明します。〈弱いものを守る、潔さ、卑怯・恥を知るなど〉といった男らしさは男性の強さ・荒々しさなどの欠点を補い統御します。すなわち、男性が強さ・荒々しさを用いて何としてでも目的を達成しようとすることを抑制するのです。〈道徳感の強さ、生活力の強さ、慎みなど〉といった女らしさは女性の弱さ・優しさを補い統御する原理なのです。すなわち、女性が周囲の言いなりになるのを防ぎます。
このような働きをも持つ男らしさ・女らしさをフェミニズムは消滅させようというのです。

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