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■2 ジェンダー秩序とジェンダー体制

◆第4章 ジェンダー秩序

★性別分業

著者は女性というカテゴリーに「他者が何を望み何を求めているのかということに気配りをし、その必要・欲求を満たす手助けをしたり、必要・欲求を実現しようとする活動を行いやすいように環境を整えたりすること」(p129)を割り当てるパターンがあると指摘します。たしかに、このようなパターンは存在します。しかし、それは女性の本質に基礎を持つものです。すなわち、女性が「私の立場」で述べた1.2.3.のように他者に優しく配慮し、身近なものに関心を持つ心性があるので、自分からそのようなパターンを望み、周囲もそれを期待するという面があるのです。そのようなパターンに従うことでそのような役割に習熟することも事実です。しかし、大部分の女性が抵抗なく習熟していくのは、女性の本質にそのような基礎があるからです。このことは女性が「自分の欲求や必要に対して顧慮することがより少なくなることを導く」(p134)と著者は指摘します。しかし、現代の個人主義の社会では、自分の個性を出すことが尊重されていて、女性が自分の欲求や必要を支配が帰結されるほど抑えることはないでしょう。女性は一方的に自分を主張したり自分を抑えたりする道よりも、自分の主張と他者の主張の両立を考えるでしょう。
「男は女によって自己の実践を手助けしてもらえることの確実性を根拠にして、女性よりも、より大きい社会的実践能力を持つことになる」(p131)と著者は指摘します。しかし、他者の手助けをする存在の最たる者である主婦に手助けしてもらえるのは男性ばかりではありません。女の子供も、女性の母親も、それから働く女性も。キャリア・ウーマンの女性も主婦であるその母や娘によって世話をしてもらえますし、パートタイマーとして働く主婦に補助的な仕事をしてもらえます。
そして、主婦に手助けしてもらった男性も女性も主婦に感謝し、恩義を感じるべきであるし、事実そのように感じている人間は非常に多いのです。また、そのように誘導されるべきです。
そして、活動の成果は男性と女性が共有すべきです。この点では問題があります。夫と一心同体となって夫の研究などを支えていたのに、いざ研究の成果が認められて表彰される段階になると、夫にだけ表彰の通知が届き、夫だけが栄誉を受けるというような現象です。これは明らかに不当です。ですので、私たちは男女共同表彰叙勲制度を提案しています。また、主婦として夫の仕事を支えていた女性が離婚した場合、夫婦の成果である年金の積み立ての金額を夫と妻が二分することを支持します。
男のふるまいや発語が女性のふるまいや発語よりも尊重される現象は昔よりは大分少なくなりましたが、存在します。この点では女性の役割がもっと社会的に称揚されるべきでしょう。
「多くの会社組織における女性社員の女の子扱い」(p133)は、男性と伍して競争する道を選んだ総合職の女性に対しての場合、不当でしょう。
「婚礼やセレモニーでの発言がほぼ男性に独占されていること、地域社会の会合などにおいて男が一家を代表するものと一般的に考えられていること、学校に提出する様々な同意書に書かれる名前が父親の名前である場合が多いこと」(p133)をジェンダー秩序の生み出す構造特性として指摘します。これらは家庭内で主婦が実権を握っていることの反面として主婦が家庭の外では夫を立てるという現象です。「銀行ローンの審査や保険の加入審査、年金加入資格などにおいて、女性は男性と全く異なる取り扱いがなされていること」(p133)は、女性と男性の事実としての生活様式が違うのでそれに対応した現象です。


☆社会的地位の獲得競争におけるハビトゥスの効果

「女性は、単にコストをより大きく評価する傾向があるだけではなく、より少ない利益しか見込めない傾向があるのである。こうしたコスト計算の結果、女性は男性よりも教育・訓練を受けるという判断をしなくなる。」(p137)と著者は述べます。しかし、こうしたコスト計算が大きな意味を持ち問題となるのは貧しい社会においてであり、豊かな先進国では妥当性が低いことが確かです。また、特に問題となる男と女のきょうだい間関係の場合でも、女性が一方的に損をするわけではないでしょう。譲ってもらった男性のきょうだいは姉ないし妹に恩義を感じ、出世した場合は特にその恩を返すでしょう。また、譲った女性は自らを道徳的存在として自信と誇りを持つことができます。


☆社会的地位の水準における支配と象徴闘争

著者は女性が「自らの世界観を客観的な正統的な世界観として呈示しえない」(p138)と述べますが、著者の主張が客観的合理的かどうかはさておき、著者を含めた女性によるフェミニズムの主張やその他の生活の実際に根付く女性なりの主張が盛んに行われていることは事実です。また、著者は性支配という自らの世界観を雄弁に語り、とどまることを知りません。


☆役割分担

著者が性別分業としてとらえている現象は一方が他方を支配するような不当なイメージを与えるに相応しい実質を持つものではありません。私は役割分担として捉えるべきものだと考えます。
役割分担とは各々がその特性に合った役割を、責任を持って担い、気持ちよくかつ上手にその責務を遂行して、能率や効率などの合理性を確保するものです。ある役割を担う適性を有する者が進んでその役割を担うことで、スムーズにその役割に習熟し、専門家として大きな力を発揮することができます。ある役割を担う適性を有する者が進んでその役割を担うことで、その役割が忘れ去られるのを防止できます。
男性と女性が共に平等に家事・育児を分担するのが望ましいでしょうか。男性と女性がともにフルタイムの仕事を持ちつつ、家事・育児を平等に分担するなら、男性と女性の双方の仕事に差し支えが出て中途半端に終わる可能性が大きいし、家事・育児も不成功に終わる危険性が大きいのです。男性がフルタイムの仕事を完全にこなすとき、少量の家事の分担でも負担になっていることを考えると無理でしょう。ですから、女性が家事・育児に責任を持つという役割分担が生まれてくるのです。
家庭では女性と男性がその特性に応じた役割を担っています。その関係は、一部の不当な事態を除き、決して一方的な支配ではありません。女性は家事・育児の責任主体となることで、男性に家事・育児の手伝いをさせたり、家事・育児に関して指示を与えたりすることができます。これに対し、男性は家庭運営の資金について責任を持ちますが、外で仕事をするので仕事の遂行そのものに関して妻に指示を与えることは通常ありませんし、稼いだ資金は妻が銀行口座を通じて受け取り、財布の紐は妻が握るという現象が見られます。
職場においても一方的な支配のような関係があるわけではありません。確かに、男性が女性に補助的な仕事を頼みやすい環境が存在します。しかし、その反面、女性は男性に仕事のノウハウを教えてもらいやすいし、汚い・きつい・危険な仕事を男性にしてもらうことができます。



★異性愛

☆異性愛

異性愛が人間の間で主導的なパターンとなる理由は、人間種族の保存のためには異性愛が必要なこと、その本能に基づいて人間が異性を引きつけるように努力しているからです。
著者は性的関係が定義において互恵的であることを否定します。その理由として、第一に「現代社会における多くの性的関係(と見なされている関係)は、相互の性的欲望のみから同意されているわけではなく、安全性の欲求や親密性への欲求、あるいは物質的利益など多様な欲望からも同意されている。」(p144〜145)ということを上げます。しかし、性的関係において男性と女性が受ける利益の内容に非対称性が存在するとしても、大部分の性的関係は男性と女性が受ける利益が向き合い、相互に対価的な関係に立っていることは事実です。相互に互恵的ではない性的関係が事実として存在するので、それを性的関係に含めるために、定義において互恵的であることを盛り込まないことには賛成しますが、大部分の性的関係には一方的な支配を支える内実はないのです。


☆異性愛というジェンダー秩序が生み出す社会関係

著者は男性を欲望の主体とし、女性を性的存在である欲望の対称とする支配的パターンが成立していると主張します。しかし、生物学的に見て、女性が性的存在と言うなら、男性も性的存在です。著者は「性的欲望に基づく実践をあまり行わない」にもかかわらず(だからこそ)性的存在となる」(p147)と述べますが、男性の欲望が、女性の欲望よりも強いことから言っても、男性は女性よりも性にとらわれた性的存在といえます。そして、男性が「女を獲得されるべきモノ 賞金 褒美などとして」規定すると言いますが、大部分の男性は女性が尊敬すべき人間として認めた上で、女性を性的関係に基づくパートナーとして獲得する競争を行っているのです。女性は男性よりも欲望を抑えられるので恋愛において落ち着いて対応することができ、恋愛において優位に立ちやすいのです。
著者は「女が性的存在であるのならば、その居場所は、性的関係が許容される場に制限されなければならない」ことから生じるものとして、「夫婦における妻の居場所を家庭に制限する規則」「宗教的修行の空間などから女を排除する規則」(p147)をあげます。家庭においてそのような規則が暗黙のうちに働くとしたら、それは一夫一婦制が夫と妻の双方に倫理的義務を課するからです。宗教的空間から、男性を排除することもみられます。尼僧院がそうです。宗教的修行はたいていが欲望の否定を目的とします。最強最大の欲望が性愛です。これをもたらすのが異性です。ですから、異性が排除されるのです。
著者は女性が性的存在であるから、「男性の性的要求を抑制し鎮めるのは、女性の責任という観念を帰結する。」(p148)とします。男性の欲望が強く、暴発しやすい傾向を持つが故に、女性が被害者にならないために、女性が慎みを持つことが求められるのです。しかし、男性が欲望を生じたからと言って、それを一方的に女性に帰責するようなことがあってはなりません。女性の責任で男性に欲望が生じても女性は嫌なら拒否しうる権利が社会的に確立されるべきです。反面、女性が男性にむやみな期待を持たせない態度をとる賢明さを持つべきです。
著者は「性規範のダブルスタンダード」(p149)を指摘しますが、これも男性から女性の方向だけではありません。女性も男性が他の女性に対して性的にふるまうことに嫉妬し悩みます。この男女の悩みは一夫一婦制により、相互の独占が公認される状態になることで止揚されるのです。
ミス・ミセスと女性が呼び方によって既婚か未婚か分かるのは倫理的なことです。ミセスと分かれば大概の男性は他者の幸福を尊重してアプローチを止めるでしょう。ですから、男性についても既婚か未婚かを区別する呼び方を導入すればよいのです。


☆相互行為の水準における性支配

著者は「女は性的関係を形成する際にその主導権を握ることができない」(p150)と述べます。しかし、女性が一旦決意すれば、性的関係を形成するのは男性よりもはるかに容易です。男性がする場合と女性がする場合とで比べてみると、ナンパの成功率は女性がする場合の方が、圧倒的に高いでしょう。これは、男性の欲望が女性よりも強いことや、女性が通常慎みを持って行動するからです。
「男は女をどのような場においても性的存在と規定することができる。」(p150)と述べます。これは女性にも当てはまります。女性はいつでも男性を性的欲望の充足を動機とする肉体目当ての性的存在と規定してその発話の効力を奪うことができます。
女性が「性的欲望の対象として自分を構成する社会的実践を行い続ける」(p150)のは男性に規定されたからではありません。女性の本質に基づきます。産む性として異性を引きつけるために美を磨く実践を行うのです。
著者は「男性に対して魅力的な服装をしているときには、その女性の言葉は、まじめに受け取られない」(p150)と述べます。下品に性的魅力を強調した服装をしているときは確かにそうでしょう。しかし、上品に美しいことによる魅力を持つ服装をしているときには、その女性の言葉は尊重されます。また、男性でも下品に性的魅力を強調した服装をしている場合、女性から相手にされないでしょう。
狭い船において船乗りから女性が排除されてきたのは、一般的に言って船員の大部分が男性であり、その男性が効率良く能率良く働くには女性が障害になりうるからです。すなわち、異性愛が主導的なパターンですので、女性が乗り込めば恋愛や性愛問題が生じる可能性が大きく、発生すれば愛憎や好悪の感情によって、船全体の能率や効率が下がるのです。また、危険な船においては特に船員のチームワークが重要であり、その障害となりうるものは排除されるのです。
著者が言うように「会社が未婚女性を性的欲望の対象とされることから保護されるべき存在としている」(p151)現象があります。著者も女性が性的欲望の対象となることを望んでいないはずですが。これは、女性は結婚して性的関係の対象となるべきだという規範の現れです。この規範は女性を単なる性的欲望の対象、遊びの対象と見る傾向を抑制します。そして、これは真面目な男性の希望、まっとうな女性と一から共に人生を築きたいという希望に合致します。
「旦那さんを差し置いて残業するわけにはいかない」(p151)というのは、主婦が家事・育児の責任主体であるからです。


☆社会的地位達成に与える影響

異性を性的欲望の対象とするのは男性だけではありません。女性も性的欲望を持つのだから。ホスト遊びをする女性もいます。
たしかに、女性には大別して主婦になるルートとキャリア・ウーマンになるルートが存在します。主婦になるルートは夫ともに自己の社会的地位を上昇させるルートでもあります。夫の仕事を家庭で補助することにより、夫の地位を上昇させて妻たる自分の地位も上昇するのです。この主婦という役割には、生物文化的ジェンダーという基礎があります。他者に優しく配慮する心性を持つから、夫や子供や親の世話に適性を持つのです。子供に責任感を持ち優しく配慮できるから、母性として育児を担当する適性を持つのです。主婦は自身のキャリアよりも他者の幸福のために労働する倫理的価値の高いカテゴリーです。また、主婦はその暇なときに社会を下支えする活動をすることもできます。その価値ある労働に相応しい待遇が為されるべきです。彼女たちは地の塩です。
私は主婦を「働かなくてもよい恵まれた自分の現在の境遇」(p153)と考えません。主婦は家事・育児という立派な労働をする存在です。その意義が認められるべきです。
主婦になるルートを選んだ男性が自己実現のために優れた男性を手に入れるようとするのは当然です。そして、キャリア・ウーマンになると決めた女性も男性に感心を持つのは種族の保存本能が恋愛を勧めるという面があります。男性も女性獲得競争を行います。ですから、恋愛競争は一方的に女性に不利に働いているわけではありません。確かに、女性は化粧や服装に男性よりも関心を持ち、そのことに時間を使いますが、それは女性が美を求めるからです。そして、表に現れる社会的地位達成において女性の割合が低くなるのは、主婦となるルートを選んで、その競争に参加しない女性がいるのですから、当然の結果と言えます。


☆社会的地位の男女間格差と象徴闘争

著者は社会的地位達成の男女間格差によって、「女性の性に関わる経験、特に暴力被害経験や妊娠・出産に関わる経験が支配的言説(広く流布された言説)の中に表現されにくくなる。」(p154)と指摘します。確かに、表に現れる社会的地位を達成した女性の割合が低いのでその影響力は男性よりも少なく、社会的地位のある女性が性に関わる経験を支配的言説にする影響力は少ないでしょう。しかし、それが意義のある言説であれば、社会的地位のある男性もとりあげるでしょう。女性運動も積極的にとりあげることができます。市井の女性個人でも現代では様々な表現手段があります。それに、女性の性に関わる経験が話されにくいのは、それがプライバシーに関わる最も個人的な経験だからでもあります。


☆性別分業と異性愛の関連性

性別分業のパターンにより「男を女に依存する存在としてしまう。」(p156)と著者は述べます。この現象は確かに存在します。女性が家庭内の権力者となり、財布の紐を握る現象があります。こうした現象は男性による女性の一方的な支配など存在しないということを証明しています。
男性には女性の拒否による「女性憎悪や女嫌いなどの心的諸傾向」も存在しますが、これは女性が拒否させる力を持つ強い存在でもあることを示しています。


☆異性愛の意義

異性愛は種族保存本能から導かれるものです。異性愛をやめることは女性をやめることもしくは女性という種族と男性という種族の対立、ひいては人類絶滅への道を歩むことです。異性愛のパターンとして観察される現象は、種族の維持本能を基礎とし、女性と比較して男性の欲望が強いことを条件として導かれる現象と、女性を単なる欲望の対象とすることから守る文化といえるでしょう。



★言語とジェンダー

☆ジェンダー秩序は普遍的・不変的な深層構造ではない

著者は「ジェンダー秩序を、あくまで歴史的に変動しうる社会的実践のパターンとして見出す」(p159)と言います。確かに、ジェンダー秩序は様々な形をとって現れます。ジェンダー体制はその現れです。しかし、それは人間の心性に基礎を持ちます。女性の本質から絶えず根拠が供給されます。でも、女性の産む性という本質をなくす道もあり得ることは事実です。このことにより、ジェンダー秩序はその本質においても永久不変ではないことになります。


☆言語的規則にあらわれたジェンダー秩序

著者は「私たちは言語的ふるまいによって社会的実践を行いうるのは、他者と共有する言語的規則にしたがって発話する場合に限られる」(p161)とします。確かに、言語の文法にまったくしたがわないならば、社会的実践を行えません。また、著者の社会的実践に関する定義によると、他者のふるまいの基礎となる規則の重要性は増します。しかし、基本的文法に従えば、相手は理解可能だし、コミュニケーションを成り立たせようとして理解を試みます。例えば、外国人の拙いたどたどしい言葉でも日本人は理解しようとしますし、幼児のたどたどしい言葉も理解されます。著者のいう言語的規則に従えば、コミュニケーションがスムーズにいく、効果がますというのが正確なところでしょう。

☆広義の言語的規則

※性同一性障害の問題については「性同一性障害について」 「性同一性障害者の戸籍変更」を参考にしてください。

著者は「自分の社会的実践を効果あるものにするために、自らそのジェンダーに関わる言語的諸規則にしたがうことを選択すると考えられるのである。」(p164)と述べます。確かに、効果的だから選択するという面があります。そして、効果的な理由は大部分が女性と男性の本質に合致するからです。同時に大部分が女性と男性の本質に合致し、従っていて気持ちが良いから従うという面もあるのです。


☆中村の言語自立観批判

著者によれば中村桃子氏の言語観を説明して、「中村のいう言語自立観とは、1 言語は社会から分けられる、2 言語を話し手の思考を伝える道具のようにみなしている、3 言語変化は自然に起こるという、三点を前提とする言語観」(p165)だということです。「それに対し、中村が対置するのは、1 言語は社会から分けられない、2 言語を使うことはそれ自体社会的行為である、3 言語を改革することはそれ自体社会を改革することであるという前提に立つ言語観」(p165)だと言います。この二つの言語観は言語の実際を二つの側面から観察して学問的方法として成立させたものと言えます。両立しえないものではありません。


☆私の立場

1について言えば、言語自体を扱って社会から切り離す研究方法は可能ですし、もちろん言語を社会過程の一部として扱うことも可能です。2について言えば、言語は社会的行為を行う際の道具だと言えます。3について言えば、言語は自然に変化することもあるし、意図的に変えて社会改革に利用することもできます。


☆人間=男観

文法に見られる人間=男観について著者は「この規則を正しい文法規則として定めていった文法学者の規範文法の構築過程に性差別的偏見が介在していたという研究」(p169)を上げています。しかし、文法学者は日常言語を前提としてそれを彫琢するものであり、文法学者が公認する前に、日常言語レベルでそのような傾向が存在していたと考えられます。男性が活動の主体として現れることが多いため、女性が男を立てるために、男性に人間を代表させていたと考えられます。
少年少女を少年に代表させるのは、どちらかで代表させるのが短くて便利だからであり、少年により代表させるのは、人間を男性で代表させる文法も影響しているのでしょう。しかし、少年には少「女」と違って「男」という単語は入っておらず、少女で代表させたときの方が抵抗感が大きいと考えられます。少年と少女どちらかで代表させなければならないとしたら少年の方が適当でしょう。



☆女=性観

著者は「酒・煙草・バクチ・女」(p171)という言い回しを上げています。女性でも、強い女性が「男」を付属品の意味で使用することがあります。
また、夫から見た妻の善し悪しを表現するような言葉が多いことを上げています。
言葉狩りをすれば言語使用が窮屈になります。また、言葉狩りは、狩られた言葉に代わる新たな言葉を生み出す結果になることが多いのです。重い差別用語は別として言葉に目くじらを立てるよりも、実際における女性の重要性の認識を向上させるように運動すべきでしょう。


☆言語のジェンダー表現研究とジェンダー秩序

著者が言う女性が「性的対象として貶められるような女性像から自分を引き離す組織的努力」(p176)は、女性が性的欲望の対象であることから性支配を導く立場では、望ましいことではないのでしょうか。
そして、このような努力によって「女性が得られる評判は、一人の男の妻となるにふさわしいという評判だけである。」(p176)と著者は言います。しかし、そのような努力によって政治家として相応しい道徳的な人だという評判や、会社経営者の信用の基礎となる評判や、地域の代表として相応しい人格者だという評判なども得ることができます。
フェミニズムは結婚が「一人の男の所有物」(p176)になることだと言います。しかし、実際は役割分担を行う対等なパートナーであることが多く、対等な恒常的パートナーであるべきものです。そして、実際にそのように結婚制度を構築していくことも可能なのです。


☆社会的世界の見方に関する男女間格差

著者は「女性は人間=男観に基づく言語に取り囲まれることによって、自分は別という感覚を発達させることになる。なぜなら、言語的諸規則は、女=性観によって女は人間の基準から逸脱しているということを女性に知らしめる」(p177)と言います。現代では女性の権利も力も強くなっています。そして、人類の半数は女性です。女性は自分が人類の基準から逸脱していると思うよりは、文法で男性が代表しているのは単なる規則だと考えるでしょう。
また、学校は疑問に思う女性に対して単なる規則であり、女性の重要性は微塵もゆらがないと教えるべきでしょう。
また、著者の言う人間=男観は、男性を代表者として扱うものです。それにより男性は自分たちだけが人間だという感覚よりも、代表者として女性のことも考えるべきだという感覚を発達させることもできます。男性だけのことを考えるよりも女性のことも考える傾向を生みます。役割分担を考えるとき、男性が女性に対して責任感を持つことは良いことです。


☆言語使用とジェンダー研究

「女性は断定を避ける 女性は主張を主観化する 女性は疑問文を多発する などの、女性の言葉使いの特徴」(p178)についての指摘は、「男よりも劣っているという性別意識に基づくものである」という立場に対して、著者は、人間=男観によっても説明できると言います。確かに、そういう要素も働いているでしょう。しかし、大部分は女性の慎ましさや優しさ、他者への配慮、謙虚さの現れでしょう。それに自分に対して注意を向けさせる戦術の面もあります。
「他者の主観性への配慮」(p178)は女性の本質に基礎づけられています。
著者は「人間=男観は、一般に人間に関する話題/問題において、女性に、そこに女である自分が含まれているのかどうか分からないという曖昧な状態を課す。」(p179)と指摘します。しかし、大部分が話の文脈から判断できるでしょう。そして、女性が含まれる場で、男性=男として人間一般について表現された場合、必ず、女性が含まれるというルールを確立すべきでしょう。そして、その女性を含まれることを否定しないのも男らしさです。


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