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■3 ジェンダーの再生産と変動

第7章 ジェンダー知の産出と流通

★日常知としての男らしさ 女らしさ

著者は「女らしさ 男らしさなどの知識は、社会生活を送る上で十分有効かつ妥当な知識ということになる。だからこそ性別カテゴリーや女らしさや男らしさなどの社会通念は、強固に維持され続けているのである。」(p308)と指摘します。一般的に言って知識が力ある場合は真理に基づいています。女らしさ 男らしさなどの知識も大部分が女性性・男性性という本質に基礎を持つ正しい知識だからこそ、力を持ち有効であるという面があります。


☆日常知としてのジェンダー知

著者は「男と女は全く異なる 男女はそもそも生まれながらにして向き・不向きを持っている」(p311)という発言は性別分業を肯定するので、抑制される傾向にあると指摘します。
ここでこの発言に対する私の考えを明らかにしておきます。男女は全く異なるというよりも、人間として同じ部分が多いと言えますが、異なる部分も少なからず存在します。正確に言えば、同じ人間としての心性の他に、生物的ジェンダーに基づいて女性・男性としての心性が形成され、その心性に基づいて行動することで社会的ジェンダーが現れるということです。社会的ジェンダーは女性、男性の本質に根拠を持ち、本質から基礎を提供されます。
この発言に対する支持が根強いのは、男女の心性の差により絶えず根拠が提供されるからです。
図表16の調査には根本的な問題があります。設問の形式が一般的な社会通念に対する賛否を問うものにすぎず、被調査者の心性を明らかにするものとはなっていません。社会一般の人が考えている女性・男性に関する事実と女性・男性に関してこうあるべきだという考え方に対して賛成か否かを問うているに過ぎないのです。
ですから、

冒険心やロマンは、男の究極のよりどころである
家庭の細々とした管理は、女性でなくては、と思う
男性の性欲は、概して女性に比べて強い


などの質問はそれぞれ

冒険心やロマンは、私の究極のよりどころである
私は家庭の細々とした管理が得意である
私の性欲は異性に比べて強い

というような形式に変更して、男性と女性同数に聞いて、その結果から違いを判断すべきものです。


☆現代心理学における性差研究

図表15の調査では、初め男性は男らしく女性は女らしいという結果が得られず、設問に修正を加えることにより、男性は男らしく女性は女らしいという結果が得られたそうです。私がこの本の情報だけで判断した問題点を述べます。図表16の女性性スケールは良い性格だとされていることを数多く上げています。男性も良い性格だということを望むので、そういった女性性スケールに高得点を与えることになります。それから、心性の違いを明らかにするには本人に問うだけでは不十分だという面があります。ある心性を有していても自分では意識されないことがあるからです。ある場面を設定したときに実際にどのように行為するか観察することも必要です。
著者は「しかしそのようにして見出された相違も、数値の相違という相対的なものにすぎない」とくさします。しかし、本質が違っていてもこうした調査では数値としか現れようがありません。そして、その数値の解釈を通じて心性の違いが分かります。
著者は「心理学研究において見出されたその他の性差に関する研究結果」(317)として「湯川隆子及び伊藤裕子の適切なレビュー論文がある」(p317)と推奨します。著者は著者に都合がよい結果だけをあげて内容を説明していません。フェミニストの著者が推奨する女性二人の論文ですから、方法と解釈において逆ジェンダー・バイアスがかかっているのではと疑われます。


☆なぜ社会成員はジェンダーを見出すのか

著者は「私たちは、たとえ最先端の脳科学を利用したとしても、心を直接に把握することはできない。」(p318)と指摘します。心の座は脳にあります。脳科学が進歩した今では、やはり外部からの刺激と関連して意味を持つものですが、脳の状態を機械により直接測定できるようになっています。内省という方法もあります。そして、私の第一哲学は人間精神の構造の合理的モデルを提供しています。


☆日常知としてのジェンダー知とジェンダー秩序

著者は「日常知としてのジェンダーは、男性・女性自身の性格を示すもの」(p319)ではないと述べます。
こういった日常知が有効なのは知識として正しいからです。単に社会がジェンダーを前提としているだけではなく、個人に性格としてのジェンダーがあるのです。ジェンダーの事実に関する知識は知性に内面化・構造化され、ジェンダーの規範に関する意識は感性に内面化・構造化されるのです。だからこそ、個人はその性格に適合的なジェンダーに基づく社会に従い、社会は個人にジェンダー秩序に従うことを要求しうるのです。
ジェンダー知とジェンダー秩序が重なり合うのは当然でしょう。


★ジェンダー・ハビトゥス

☆異性獲得ゲーム

著者は「ジェンダー・ハビトゥスの獲得も、そのハビトゥスを獲得することを実践上有利あるいは有効とする場においてなされると考えられる。」(p325)と指摘します。知識が実践に利用されるのは当然なことです。そして、有利・有効のみならず、人間の本性に動かされてという面があるのです。ジェンダー・ハビトゥスは男性・女性の本質に適合的であるがゆえに、進んで獲得され、実践上効果を発揮するのです。
著者は「ジェンダー・ハビトゥスは、ほとんどの社会成員が配偶者獲得を本気には考えない幼児期から児童期において既に、獲得されはじめる。また配偶者を獲得した後においても、ジェンダー・ハビトゥスを維持し続ける。」(p326)と指摘します。これも原則として一生性的存在である人間の男性・女性の本性に適合的だから、配偶者獲得を競う時期以外でもそのようなジェンダー・ハビトゥスを獲得し維持し続けるのです。
著者は「社会的地位の上昇や経済的利益を、ゲームの利益として見込んでいるわけではないのである。それにもかかわらず、思春期から青年期における異性獲得ゲームは、しばしば白熱した様相をおびる」(p326)と指摘し、その原因として「異性の友達や恋人がいないということが、同性同輩集団における地位の低下を生み出すようになる。これらの同性同輩集団における地位や影響力こそ」(p327)が「主要な利益である場合が多い」原因だとします。著者は大きな原因を故意に軽視しています。この年代で異性獲得ゲームが白熱する原因は、種族維持本能に基づく異性への憧れや興味であることが若者の大部分に言えることです。これに比べれば同性同輩集団における地位や影響力などは小さなものでしょう。それに特定の相手を故意に持たないことによって異性の崇拝者を従えることで、同性間で影響力を得ることもあります。異性を遠ざける同盟を結ぶことで同性の結束を固めることもあります。


☆同性同輩集団の意義

「なぜ男女は、同性同輩集団を所属準拠集団あるいは比較準拠集団として採用する傾向が強いのだろうか。」(p328)と著者は考え、その原因として「何が価値あることなのかという評価基準そのものが、男性版と女性版の二つ形成されている」(p328)ことをあげます。確かに、男性と女性が存在し、その本質に適合したジェンダーがあることが根本原因です。それに加えて、同性同輩だと成長の程度が同じで興味が同じになることが多いこと、異性を意識すること無しに気楽に遊べることなどが上げられます。
著者は「ジェンダー・ハビトゥスの獲得に向かう社会成員が具体的に見込んでいる利益は、異性獲得に限定されているわけではない。」(p330)と述べます。しかし、種族維持本能に基づく動機が大部分です。異性獲得ゲームが行われなければ、異性のカップルが生まれなければ、種族の保存はできないのです。


☆身体と外見の相違

著者は「性別によって、異なる服装・化粧・髪型などをすることが定められているだけでなく、社会成員が自分の外見を、他者から見て性別がはっきり分かるように整えることを、規範として課しているのである。」(p331)と指摘します。しかし著者の言う規範は、男女の見分けがつかない格好をしていても誰もとがめる人がいないように、強制力のないものであり、それに従っていると快適であることが多いというものにすぎません。そして、快適なのは多くの男性と多くの女性の美意識に一般的に適合的に形成されているとともに、自らにアイデンティティーを与え、帰属感と安心感を与えるからです。服装・外見に関する好みの違いの基礎には男女の心的傾向の違いがあるのです。


☆様々な身体技法

ここで著者は「ジェンダー・ハビトゥスは、何が感じよいふるまいであるのかについての男女別の感覚を予め私たちの身体に刻みこんでいる。」(p332)と述べます。また、以前には、「こうして形成された自分の理想像は、美しい-醜い 好き-嫌い 感じがいい-感じが悪い 格好いい-格好悪いなどの審美的な感覚として、私たちの知覚の内部に刻み込まれる。」(p330)とも述べています。著者はここで本質を述べています。このように知性・感性に心性は構造化されているのです。
著者は「このような家事能力、すなわち行うべき家事項目を自ら知覚でき、優先順位をつけて複数の活動を順次だてられる能力は、経験によって獲得されるものである。経験によって獲得された知覚評価図式が身体動作を導き、そうした身体動作の積み重ねがより明敏な知覚評価図式を形成されるのだ。」(p334)と指摘します。確かに、経験の積み重ねにより能力が磨かれること、男性でも適性があればこのような能力を身につけることができることは否定できません。しかし、女性が一般的に言ってこのような能力を身につけやすいことは事実です。その基礎には女性が細々としたものに目を向ける心性があること、他者に対する配慮をする心性があるので他者の幸福のためにこういった能力を身につける動機が生まれやすいということがあるのです。


☆実践と他者評価

著者は獲得したジェンダー・ハビトゥスに基づいて「同性により厳しい評価をするという傾向が生じることになる。たとえば、長年母親業を行ってきた女性の方が、男性よりも、若い母親たちの子育てのしかたについてより厳しく評価することが多い。」(p335)と指摘します。しかし、これは専門化による面があります。そのことについて熟練して専門的な能力を身につけた者は、普通の人がその専門分野で行うことの欠点を簡単に見抜くことができます。その見抜いた欠点を専門的立場から指摘して是正しないではいられないのです。


☆女性と感情

著者は「女性は、ジェンダー・ハビトゥスによって、他者の感情により気づくようになる。このことは、女性は感情的であるという日常知を産出する」(p337)と指摘します。しかし、女性が感情的であるという日常知が生まれるのには次のような基礎があります。男性は構造化された心性に基づいて合理的・論理的思考を貫いて行動しようとします。これに対し、女性は、女性の心性から感性・イメージに基づいて直感的に行動しようとします。このため、感情に左右されやすく論理よりも感情を優先させてしまうことがあるのです。また、女性は他者に配慮するため、他者の感情が良く分かり、その分かった感情に対して感情で対応してしまうことが多いのです。
著者は「以上、女らしさ 男らしさなどの性別的特徴は、性別二元論と異性獲得ゲームが構造化されている社会においては、社会成員自身の自然な性向であるかのように、産出されていくことを論じた。」(p338)と述べます。しかし、ずっと私が論じてきたとおり、事実的な基礎があるから自然な傾向として産出されるのです。


★ジェンダー知の流通

☆表現の流通における男女の不均衡

著者は「近代に至るまで、多くの女性は、厳しい家事労働と生産労働に従事することを余儀なくされ、読み書きすら習うことができないままであった。」(p339)と指摘します。しかし、近代に至るまでの事情は特に先進諸国では大きく変化していますし、開発途上国でも女性に対して読み書きの能力を身につけさせることに力を入れています。


☆近代科学というジェンダー知

男性も女性について客観的合理的に語ることができます。男性にとって女性は異性なので返って客観的な観察の対象として女性が自身では見えないことも見えるかもしれません。そして、私の考えは著者の言う19世紀近代科学、すなわち「性差の科学」とは異なり、確かな根拠を持ちます。性差の科学は女性の本質ではない肉体の特徴から無理に性差を導き出します。しかし、私の考えは男性、女性の本質に基づいて、心性の差を導き出すのです。
著者は「一九世紀、経済的自立のために働く女性は、自然にあらがうだけだと科学者は記し、ダーウィンの進化論をひいて、女性に参政権を与えるのは、進化上の退化だという主張はあとをたちませんでした。医師と教育者は異口同音に、若い女性が長時間勉強したりとすると、生殖器系がひどいダメージを受け、気が狂って葬られかねないとおどしたものです。」(p343)という考えを指摘します。また、著者は「女性の身体的劣等性の原因になっているのは、スペルマ(精子)の不在であり、その点で女性は去勢された宦官に似ている 女性はまたその身体的脆弱さゆえに子供に近い」(p344〜345)という考えを指摘します。もちろん、私はこれらの考え方を完全に否定します。
著者は「ラセットは、一八二○年頃から盛んになった骨相学において、女性と男性の精神構造には生来の相違があるという知見が、頭蓋骨の特定の部分の突出や脳の解剖によって導き出されたということを述べている。」(p345)と指摘します。私は、脳の外見から精神構造の本質的な差異を見出すことも、人間の身体的外見の相違から精神構造の本質的な相違を類推することも否定します。私の考えはあくまでも女性、男性の本質からそれぞれの心性の差が導き出されるというものです。その私の考えでは、ラセットの骨相学のような「女性の知能は不活発で、また思考力も脆弱である。女性の理性が及ぶのは目に見える範囲の世界にとどまる。また女性は幻想の世界へと、すばらしく大胆な遠出をすることもない」(p345)という考えは導かれません。女性の知能は活発で、思考力も強靱であり、女性の理性は目に見えない遠くに及び、幻想の世界へと素晴らしく大胆な遠出をすることができると考えます。ただ、女性と男性では知性と感性が異なる方法を用いて働く一般的傾向があると考えるのです。生殖器という本質から心性の違いを導き出すのです。
著者は「解剖学、動物学、医学などから生まれた自然人類学は、誕生の当初から医学的分析を偏重し、肉体の構造による人種の分類を強調した」(p346)と述べ、自然人類学の研究によると、「女性の脳は男性の脳よりも小さく軽いということがほぼ言えたのである。」(p347)と指摘します。もちろん、私はこれにより男性の方が一般的に言って女性よりも知能が高いことが導き出されるとは考えません。私の考えは「女性よりも男性の方が優秀であるという性差理論」(p347)ではありません。女性と男性には本質から導き出される特性の違いがありますが、それは優劣をもたらすものではないと考えます。
著者は「進化心理学は、個体発生と系統発生という観点から、人種を異なる進化段階にあるものとして位置づけた。そこでは、黒人やモンゴロイドは、女性と同じく、精神の段階において子どもの段階で発達がとまってしまった人間として位置づけられた。」(p348)と指摘します。もちろん、私は黒人もモンゴロイドも女性も白人男性と同じ段階にあると考えます。皮膚の色の違いは、人種間に本質的な差異を何らもたらしません。私は人種差別を完全に否定します。ただ、男性と女性の間には、本質から生じる差異がありますが、それは男性と女性の間に優劣をもたらすものではないと考えます。
男女間に優劣を考える性差の科学が消滅していったのは、女性運動とともに真理と客観性合理性を求める科学の自浄作用が大きかったと考えます。


★科学的言説が社会成員に与える影響

☆人間や社会に関する科学的言説がはらむパラドックス

著者は「社会科学が社会や社会成員との間で相互作用する」(p355)ことを指摘します。確かに、社会科学は社会や社会成員を研究対象として影響を受けるとともに、社会や社会成員がもたらす社会現象を構築し破壊します。ここで、私の社会科学と社会との間の関係に対する考え方を述べておきます。まず、社会科学は自己検証を行って客観性、合理性を確保できます。それは、理論相互の整合性の検証や、理論内部の論理性の検証、実験などによる理論の有効性の検証を行って確保できます。そして、ある科学理論が現実に対して力を持つのは、本質や真理に一致しているからであることが忘れられてはなりません。これに対し、イデオロギーが力を持つのは、虚構や疑似理論に支えられた説得性が重要な役割を果たしています。そして、本質や真理に一致する科学は、本質や真理に一致する社会世界や言説を強化しますが、本質や真理を歪めたり隠蔽したりする社会世界や言説に対しては破壊的に働きます。
著者は「男女二元論による社会の再生産を崩すためには、このつなぎ目であるところの性差についての科学的言説を崩す必要があったのである。ジェンダーという概念は、この最も堅牢に溶接されたつなぎ目を、ばらばらに解体してしまう効果を持っていた。だから、この概念は革命的であったのだ。」(p358)と指摘します。私はここまで、著者たちの使用する「ジェンダー」のイデオロギー性を明らかにしてきました。ジェンダーが力を持ったのは、本質を隠蔽するイデオロギーの説得性によるものです。性差の科学以前にもジェンダーは存在しました。性差の科学はそれを理論により強化しようとしたものです。性差の科学以前から本質によりジェンダーに基礎が供給され、それは今も続いているのです。


☆社会問題の構築という回路

主婦を肯定し、女性が家事・育児に責任を持つべき以上、「母親であれば子どものためにはどんな努力も厭わないものだ」(p360)という母親像は理想像として維持すべきです。この母親像が生み出す「子どもの病気を直すために懸命に努力する母親」(p360〜361)や「なによりも子どもを自分で育てることに喜びを感じる母親」(p361)などの物語は良い主張です。

※「母性愛の理想」参照

「子どもが病気なのに治療を受けさせられない母親」は事実として問題です。「就業しなければならないことによって子どもを自分で育てられない母親」は今では社会問題として構築する動きはありません。
「病気の子どもを抱えた母親は、子どもの病気を直すための政策を社会に要求できる権利を得るが、逆に、母親自身子どものためにどんなことでもすべき義務を負うことになる。」(p361)と指摘します。しかし、病気の子どもを抱えた母親が得るものは、物語に一致しているので支援してもらえるということであり、それに対して、病気の子どもを直す努力が求められるだけであり、どんなことでもすることが求められてはいません。
「就労する母親は、託児所などを要求する権利をえるが、その権利とはうらはらに、母親の就労が経済的理由など余儀ないものであることを証明する義務を負う。」(p361)と指摘します。しかし、就労する母親は、子どものことを考えて便宜が図られるだけです。余儀ない理由が必要とされるのは他の働く母親との関係です。定員が不足しているので、その優先者を決めるためです。


☆第一線職員

著者は「家庭責任を担うべき女性の不在(たとえば母親の就労など)や役割の不遂行(子どもの世話の放棄や放任、知識や家事能力の不足)などを、記録されるべき事項とするのである。」(p362)と指摘します。一九世紀の性差の科学は認められませんが、男女対等に基づくカテゴリー化は正当なものです。主婦が肯定される以上、家庭責任を担うべき女性が存在することが望ましく、その主婦が役割を果たすことが望まれる以上、このような事項は記録されるべきです。
著者は「離婚裁判においては、妻が家事責任を果たしていないとか、母親としての責任を果たしていないとか認定されることは妻に不利に作用する。」(p362)と指摘しますが、主婦は自分の役割を果たすべきである以上、不利に作用するのはしかたがないことでしょう。


☆教育

著者は「彼女たちは、女性を客体化する科学的言説に反発を感じざるをえない。」(p364)と指摘します。しかし、科学である以上、対象の客体化は避けられません。女性が女性に関して研究する場合も女性を客体化せざるをえません。しかし、男性が女性を客体化する場合は不注意から女性にとって不快な表現をしてしまうことも事実です。男性研究者は自戒すべきでしょう。女性も男性を客体化する研究が可能ですし、男性の女性研究におかしなところがあれば、科学の立場から客観的合理的に批判して行きましょう。


☆メディア

著者は三歳児神話を疑似科学的言説だと指摘しますが、この点に関しては

※「母性愛の理想」参照。

フェミニズムもこの本に見られるような逆ジェンダー・バイアスに基づいた疑似科学的言説を提供しています。
著者は「二○世紀半ばにいたるまで、女性の心理的特性を、男性とはまったく異なるものとして定義していた。そこでは女性は妻となり母親となることによって自己実現するものと考えられていたので、母親であることに満足できない女性は、女性性を受容できない心理的な発達障害として、定義されることになったのである。」(p370)と述べます。私の考えでは、まったく異なるとは言いませんが、女性と男性には本質に基づく心性の違いが肯定されます。それが、妻となり母親となることの適性の基礎を与えます。ところが、フェミニズムはこの主婦の道を否定します。母親であることに満足できない女性、すなわちキャリア・ウーマンを肯定するにとどまらず、妻となり母親となることで満足する女性を否定します。恐るべきイデオロギーと言えるでしょう。


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