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◆第8章 ジェンダーと性支配

★フラクタル図形としてのジェンダー

☆循環論

著者は「最初に措定したジェンダー秩序が、最後に論じたジェンダー知の生産と流通に関する議論によって再度説明されるような循環論になっている」(p373)ことを認め、「ジェンダーという社会現象(それ以外の社会的現象についても基本的に同じ認識を持っているのだが)自体が循環的に形成されていると考えている」(p374)からだとします。社会構築主義をとり本質ないし根拠を無視するなら、循環的に説明するしかないでしょう。そして、循環しているなら、その連鎖の一カ所を断ち切れば、循環は止まるはずです。ジェンダーという「革命的」概念もジェンダー知に対して打ち込まれました。にもかかわらず、循環を断ち切れないか、断ち切ったかに見えても再生してしまうのは、本質ないし根拠から絶えず基礎が供給されているからです。


☆外と内にある同じ構造

著者は女性がなぜ育児専業者として夫ではなく自分を選択するかという問いの答えとして、「多くの女性が、稼ぎ手としての将来性は男性の方が高いと予想している」(p375)ことと、「男性は仕事をしていない時自尊心を失いやすく、女性は自分で育児できない時に後悔や罪悪感に苛まれる」(p375)ことを上げます。この他に重大な理由があります。それは生物文化的ジェンダーに基づいて女性が育児に適した心性を、それは母性に適した心性でもありますが、有し、育児を担うに相応しい文化を生きていることです。そして、女性が自分で育児できない時に後悔や罪悪感に苛まれるのは、この心性が関係しています。自分が産んだことで新生児に対して責任感を持ち、新生児に対して何かしてやりたいと思うからです。そして、何かしてやるには適当な手段として乳房を有します。これに対して男性は母子を守ることで存在意義を見出します。具体的には母子の生存と安楽を確保するために、経済的条件を良くしようとします。男性が仕事をしていないと自尊心を失いやすいのは、女性のように子どもを産むことで自分の存在意義を確実なものとすることはできず、能力により自分の存在意義を明らかにする道を選ぶことになるからです。仕事ができることは確実な能力の証明です。
著者は循環を「私たちの主観性によって認識し、自由に行為することができるのだ。けれども、私たちは、それらを私たちの行為の条件とせざるをえない。」(p377)と指摘します。確かに、行為するときに与えられる環境としての条件について述べているならそのとおりです。しかし、行為の時に従わなければならない条件について述べているなら、正確ではありません。人間は主体的決断によって環境に従うことも従わないこともできます。フェミニズムが行ったように循環に意義を唱えることもできます。にもかかわらず、循環が止まらないのは循環が本質ないし根拠から絶えず基礎が供給されているからです。


☆性差と性差についての認識

著者は「女性は仕事の上のトラブルを処理する能力がないなどとよく言われる」(p377)と述べます。このような一般的な言説が生じることにも基礎があります。女性の心性は一般的に言って平和を好みます。しかし、トラブルを解決するには争いの中に進んで入って行くことが求められます。これに対して、女性は及び腰になってしまうことが多いのです。
著者は「職場における人事考課で女性が低く評価されてしまうのも、そもそも女性には大きな仕事は与えられていないからそうなる側面もあるのだ。」と指摘します。大きな仕事は危険でトラブルを生むことがある大変な仕事です。ですから、女性の心性を考えて他の補助的な仕事を回されるということもあります。しかし、補助的な仕事でもその下支えがなければ仕事が成り立たないのですから、その重要性がもっと認識されるべきでしょう。


☆相互に映し合うジェンダー体制

著者は「女性が職業を持ち続けようとすれば、女性は、職場だけではなく、家族や学校や病院や地域社会などとも闘わなくてはならなくなる」(p379)と指摘します。未だに、そういう側面もあるのでしょう。しかし、今の時代はフェミニズムが主婦を攻撃し、母として妻として自己実現を図る道を弁護しなければならない時代なのです。


☆フラクタル図形としてのジェンダー

著者はジェンダーをフラクタル図形になぞらえます。フラクタル図形と言えるまでにジェンダーが浸透しているのは、性差の本質から絶えず基礎が供給され、それに適合的に社会が形成されてきたからです。


★性支配

著者は「権力とは、自己が目的とする事態の達成に向けて、他者の実践を積極的に動員する力のことである」と定義し、支配については「相互に権力行使実践を行う社会的相互行為においても、両者の権力行使の達成の度合いが著しく異なる場合がある。社会的相互行為水準における支配とは、そうした社会関係のことである。」(p383)とします。著者が言う社会的相互行為水準における支配であっても、直ちに不当性が認められないのは以前に検討したとおりです。その社会的行為水準の実質に立ち返って不当性を検討する必要があるのです。私はこれまでその実質を検討してきました。


☆性支配の記述が困難になってきた理由

「なぜこうした権力の定義を行うのか。」(p384)。著者の権力と支配の定義は極めて一般的抽象的であり、そこから不当性を導き出すことはできません。その定義は従来の定義とは異質です。にもかかわらず、それを「権力」と「支配」として押し通そうというのは、従来の定義が強制という概念を通して持っていた不当性のイメージを著者の定義に与えるためだと考えられます。
自発的に行われる社会的行為に対しては強制が見出されないが故に権力や支配と呼ばないのが普通です。しかし、著者は不当なイメージを持つ権力や支配と言いたいがために自分独自の概念を押し通すのです。


☆ジェンダー秩序=性支配

著者は「男性に対して自分の話を聞いてもらえない 言ってもまともにとりあってもらえない はっきりいやだと言って止めるよう頼んでいるのに、無視される 自分がその場にいるのにいないかのように扱われるといったことを感じている女性は、非常に多いのだ。」(p388)と述べます。しかし、同じ様なことを女性に対して感じる男性も多いでしょう。そして、男性はメンツに関わるのでそのようなことを話さないことが多いでしょう。また、女性に非常に多いというなら、それは女性が通常優遇されていて、また優遇されるべきだという規範があるので、優遇されないときに強い不満を感じるという面もあるのではないでしょうか。
著者は「日本の女性言葉は、命令形を持たない。」(p388)と指摘します。しかし、「〜しなさいよ。」と言ったり、単に丁寧に「〜しなさい」と言ったりするのは、女性として不自然な言葉ではないと感じるのですが。


☆家父長制とは何か

著者は「確かにジェンダー秩序は、そのパターンを誰もが容易に理解しうるという意味においては規則である。しかし、社会成員がその規則に従わないことも充分できる規則として位置づけられている。」(p392)と認めます。規則に従わないことが十分にできる規則には流行や、男女に関わらない習慣、エチケットなどもあります。これらのうち男女のカテゴリーに関わる習慣だけを権力・支配というのは、それが不当だから不当だと言っているにすぎません。そしてその不当性を支えているのは男女平等のフェミニズムのイデオロギーです。フェミニズムのイデオロギーは男女の物質が不平等であり、本質において差異があるのに、その本質を隠蔽し、その本質を消滅させる道を選ぶものなのです。


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